愛の自覚

 ドニ・ド・ルージュモンは『愛と西洋』(邦訳、『愛について』)のなかで、二人は真実愛しているのだが、相互を愛するのではない、と説得力ある論述をしている。二人が愛するのは、愛の対象の人であるよりは愛の自覚ーー愛のなかにいるという状態(原典では傍点)ーーそのものである。愛される人は、愛する人自身が昂揚してゆくための存在として機能するかぎりにおいてのみ貴重な価値をもつのである。二人は見た目は互いに夢中になっているのだが、二人の情熱はそれぞれのナルシシズムを隠すだけのものである。情熱はひとつの幸福を約束するのだが、情熱はその幸福を、人知を越えた次元においてしかもたらすことができない。

『エロスと精気(エネルギー)―性愛術指南』

さらに目が覚めた

暴力を振るう者の特徴1:責任逃れ
・何か問題が起こると自分には原因がないと主張してパートナーに責任をなすりつける。
・自分からもめごとを起こしておきながら平然と被害者のような振りをする。
・不幸だった子供時代の話をしたりして、相手に同情心を抱かせようとする。

暴力を振るう者の特徴2:いつも癒されていたい
・常にパートナーに見つめられていたい。
・「大丈夫?」と声をかけ、気遣っていてほしい。
・褒められるのは好きだが、批判されるのは大嫌い。
・何かあると、「あなたは悪くない」と言って、安心させてもらいたい。

暴力を振るう者の特徴3:捨てられるのが怖い小心者
・捨てられるのではないかという子供じみた不安のために、常に神経が張り詰めている。
・自分で勝手に不安感を引き起こしておきながら、すべてパートナーのせいにして当たり散らす。

暴力を振るう者の特徴4:パートナーをロボットのようにコントロールしたがる
・パートナーと健全な関係を保つための距離の取り方を知らない。
・パートナーを自分の所有物と勘違いしている。
・ひたすらパートナーを自分と同一化しようとして、分かち合うのではなく、独占する愛で支配し、一足す一が一になるような息苦しい関係を築きたがる。

暴力を振るう者の特徴5:悪質なナルシスト
・理想が高すぎて現実の自分とのギャップに失望し、無力感に襲われることが多い。
・誇大妄想ゆえに、善と悪を知り尽くしているような顔をして、説教じみた態度をとる。

暴力を振るう者の特徴6:ボーダーラインぎりぎり
・人間関係は常に言い争いの危険性をはらんでおり、不満や不足を感じるや相手を破壊してやりたいという欲求が生まれ、実際に破壊的な行為に出ることで内面の緊張を解こうとする。
・周囲の否定的な態度を異常に気に病み、パートナーからのささいな指摘や非難にも過敏に反応してすぐに気を悪くする。
・自己評価が極めて低いために、パートナーの愛をキープしようとして並外れた野望を抱いたりするが、パートナーに拒絶されそうになると、実際に逃げられるのを恐れて、先手を打って捨てられる前に捨てようとする。
・他人との接し方は極端で、情熱的に愛し、理想化する一方で、相手から少しでも距離を置かれたり、批判的な態度を見せられたとたんに著しく評価を下げて、しまいにはばっさりと関係を断ち切る。
・自分が依存している相手に関しては、強い両面感情を見せ、フラストレーションをうまくコントロールできなかったり、ちょっとした衝突で苛立つと、度を越した怒りを爆発させる。

暴力を振るう者の特徴7:自分の欲だけでパートナーを選ぶ
・自分の欲を物差しにしてパートナーを選ぶ。
・活力にあふれた生き生きとした相手を選び、吸血鬼のように相手の持つエネルギーを吸い取って、かわりにエネルギーを取り込んでいくための源とする。
・何ひとつうまくいかず、すべてが混乱しており、すべてが試練に感じられ、常に文句ばかり口にして、身近な人間に否定的なものの見方や不満を押し付ける。

暴力を振るう者の特徴8:不安に取り付かれている
・完璧主義で、何でも完璧にしたがるために、細かいことにこだわりすぎる。
・私生活では要求が強く、支配的で自己中心的。
・感情の爆発をいつも恐れている。

『殴られる女たち―ドメスティック・バイオレンスの実態』より、一部引用者により改変



どっかで見たことある書名だなと思ったけれど(いやそれは『バタードウーマン―虐待される妻たち』)、ぱらっと手にとって、フランスの精神科医が書いてるのか珍しいなと思い読んでみた。

DVへの取り組みに関しては、分析研究から法制化、加害者更生プログラム、被害当事者支援までシステマティックに進んでいるのはアメリカだ。一方の「人権」発祥国フランスでは、DVの問題にはどう取り組んでいるのか興味があった。

タイトルには『殴られる〜』とあるが、実際に著者が診察したDV事例を参照しつつ、肉体的暴力が起こる以前から周到に仕組まれた精神的暴力(言葉や態度)のありかた、その見抜きかたに焦点を当てているのが素晴らしい。

上記引用のようなタイプ分けは、まるで一頃流行った性格別心理特徴解説みたいだが、著者は上記のような特徴を「病理」として特別に囲い込むことはせず、「精神的疾患が原因で暴力的になる男性も中にはいるが、ほとんどの場合、暴力を振るうのは、自分の行動に対する責任能力を持っている『正常』な男たちだ」と述べて、上記の特徴はむしろ「正常」な男性にありがちな特徴であり、「こうした男性たちの精神状態がどのように機能しているか知るのは、治療を引き受ける立場にとって有益なだけでなく、なによりも、女性たちを危険な関係の罠から守る手助けになるはずだ」という。

察しのよいかたはとっくに気づいていると思うが、本書は婚姻関係にあるヘテロカップルだけを事例や分析の対象としている。だが、上記引用部分では、あえて性別表記を曖昧にした。

♀♀カップルでの肉体的暴力の発生は皆無ではないが、どちらかというと心理的暴力のほうが頻発しているとわたしは見ている。上記の暴力者の特徴についての性別表記を曖昧化すると、男性から女性への暴力だけでなく、非異性間カップルにも充分適用できる特徴となる。著者の「早いうちに、見過ごしてしまいがちな小さな虐待、心に襲いかかる暴力を『危険な暴力』として認識し、もっと真剣に、もっと深刻に受け止めなくてはいけない」というメッセージは、非異性間カップルにとっても他人事ではない切実なものになる。

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「あなたがレズビアンになったのは虐待されたからですか?」

相方から借りている本を、寝る前にちょっとずつ読んでいる。以下引用。

[…]私が自分の性的志向(ママ)を公然と発言して、質問をされてもいいと言うので、「あなたがレズビアンになったのは虐待されたからですか?」とよく尋ねられます。

 私はいつも「いいえ」と答えます。話す相手によっては、表現力がとても豊かなある近親姦サバイバーから聞いた大好きな言葉も加えます。「性虐待のおかげでレズビアンになったのなら、性虐待にも、まあ、せめてひとつだけはいいことがあったね」または、「この国の男性から性虐待された女性の数について考えてください。性虐待があれば必ずレズビアンになるならば、レズビアンの人口は今よりはるかに多いはずでしょう」と言います。

 性的志向は完全に異性愛、完全に同性愛という人もいますが、異性愛と同性愛の2つにきっぱり分かれるものではなく、大半はそ2つの間のどこかに位置しています。むしろ、私たちの生き方はもっと多様になるでしょう。

 人が同性愛、異性愛になる決定的な理由はまだ解明されていません。子どもの頃に性虐待されたことが原因で、より多くの女性がレズビアンに、またはより多くの男性がゲイになるというどんな証拠もありません。実際に子どもの頃に性虐待されなかった同性愛志向の人たちは多いのです。しかし、私はレズビアンとゲイの男性が高い割合で、自分が虐待されたと公言していることに気づきました。これは次のことを暗示していると思います。

1)虐待者の大部分が男性であり、レズビアンは男性をかばう必要をあまり感じないという事実

2)虐待の課題を探るための温かい環境が、レズビアンやゲイの共同体にあること。

3)そして、ゲイの男性とレズビアンは自分の性的志向に目覚める過程で自分の性をしっかり見極めていること。

このような性についての高い自覚によって、性虐待された情報を発見する機会は多くなるのです。

(『もし大切な人が子どもの頃に性虐待にあっていたら―ともに眠りともに笑う』)
 *引用者により適宜改行

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イイ女に夢中♪

「どうしてサハラ砂漠へ行く気になったんですか」と、よく聞かれる。

 いつも何かをすると、“なぜ?”がつきまとうのは、どうしてだろう? “なぜ、バイクに乗るんですか?”“なぜ、レースをやるんですか?”“なぜ、結婚しないのですか?”全てなぜ? なぜ? なぜ? である。

 私は反対に皆に問いたい。

「なぜ、そんなに何でも理由づけしたがるんですか?」と。

(堀ひろ子『サハラとわたしとオートバイ』プロローグより)



堀ひろ子:
1949年ーー東京生まれ。日本初の女性ロードレーサー。
1975年ーー5月〜11月、世界一周ツーリング25カ国4万Km走破。
1976年ーー女人禁制だったロードレースに特例として参加を認められる。
1978年ーー女性だけのレース「パウダーパフ」主催。
1979年ーーモータースポーツファッションブティック「ひろこの」開店。
1980〜81年ーー4時間耐久ロードレース参加。
1983年ーー4月〜5月、今里峰子とともにサハラ縦断ツーリング完走。
1985年ーー4月30日、心不全のため逝去。享年36。

かのじょの存在によってオートバイの虜になったというひとがけっこう多い。たいては男性だけど。「ひろこの」は主に女性用のモーターファッション用品を扱っていたが(くちびるマークのロゴ)、男性の愛用者も多かったようだ。

わたしがかのじょを知ったのは最近のことで、まだ著書も一冊しか読んでいない。

けれども、上に引用したプロローグをはじめ、この本一冊読んだだけで、サハラ縦断の同行者として、経験豊富な男性ライダーではなく、経験値の少ない女性ライダーを選んだ理由は、かのじょに問わなくても、わたしにはわかる。わたしもきっと、かのじょと同じような選択をすると思う。



ひさしぶりに

夫婦水入らずみたいな、静かで穏やかなひとときをすごす。
まるでこどもが修学旅行にでも行っていて留守のあいだに、「ふたりですごすのはひさしぶりだね〜」なんてなごんでいるような感じ。

落ち着いてふりかえってみれば、この2月から3月にかけて生活が一変した。1月までやっていた奴隷労働を突然辞め、収入のないままプー生活に突入。相方のなけなしの収入でほそぼそと暮らし、3月にはさらにゴリラが闖入。相方が貯めていた貯蓄がどんどん目減りしていく。

ひとりが稼いでふたりを喰わせるのはたいへんだ。気ばかり焦っていたが、相方が仕事をマネジメントしてくれた。ありがたや。

そして今後はわたしが稼ぎ頭となる。嵐の前の小休止。以前の奴隷労働のように暇疲れしている場合ではない。活動どまんなかである。

そして、活動とは雑用のことである。毎日雑用が山のように押し寄せる。片付けても片付けても終わらない。でも、楽しい。終業後に美味しくビールを飲むのが、いまのささやかな幸せである。

近々日本を離れる相方に仕送りする気は満々だが、無芸大食のゴリラを養うことには理不尽さを覚える。親でもなければ子でもないのに。

こどもがほしいと思ったことは一度もない。ないにもかかわらず、自分の意志とは無関係に、こどもを持たない者のもとには、こどものかわりに犬やら猫やらゴリラやらが舞い込んでくるのだそうだ。縁とはおそろしいものよ。

血のつながった子なら可愛いと思える、とは、ちっとも思わない。血のつながりよりも、縁のほうがずっと濃いし、避けようがない。話の通じる相手とだけ縁があるわけではない。話の通じない相手ともかかわっていく縁を、どうやら負わされているようだ。

この呪いを粛々と受け止めることが、徳を積むことになるのだろうか。




石井ゆかりははたして占い師なのかどうか

インタビューシリーズ第4回目。お相手は36歳ゲイ男性Tさん。

石井ゆかりはセクシュアルマイノリティを否定したり蔑視したりすることはない(と思う)が、だからといって誤解や偏見がないわけではない。それでもかのじょがいいなと思えるのは、自分の抱いていた偏見を偏見と認め、認識を修正する柔軟性を持っているから。

そして、実際のTさんがどんなかたかは知らないけれど、石井ゆかりの筆致からうかがえるTさんは、なにかに磨かれて磨かれて、とてもキラキラしているようにみえる。



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合言葉をつくろうかねぇ

ここ数日のあいだ、まったく異なる面々から、同時多発的に、まるで示し合わせたかのように、同じことを3回立て続けに言われました。

「きれいな手ですね」ってやつです。

1回目は取材先で。
2回目はごく親しいおともだちに。
3回目は定期的に通っている仕事先で。

偶然もここまで連続すると、しまいには笑えてきます。3回目には言われたとたん「またかよ!」と思ってつい「ぶはは!」と吹き出してしまいました(関係的にはもっとも笑ってはいけない間柄なんですけど)。

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会話相手のリアクションを好意か悪意かでしか解釈できない偏狭さについて

つねに共感されたい寂しいひとなんだろうなと。同情はしませんが。

話をするのに、「どうしてそんなに冷静でいられるんですか?」と聞かれたのははじめてだ。あまりにびっくりして二の句が継げなかった。感情的にやりあったら、それは会話ではなくケンカになってしまうし、第一こちらには感情的になる必然性はほとんどないし、感情的にならず冷静に応対することがとりあえず初対面のひとと話をするマナーである、と信じているんですがね。

こちらが冷静に対応するのがそんなに腹立たしいの? 冷静=批判ではないし、「ほぉ」とか「なるほど」というわたしのリアクションにケチつけられてもねぇ(「バカにしている」と思われた? 「お説ごもっとも!」なんてゴマスリするほうがずっとバカにしてると思うが)。というか、積極的にわかりやすく共感されたかったんだろうね。

そもそもこちらは「あなたの見解がわかる文献はありますか?」と聞いただけで、その場で議論するつもりなんかこれっぽっちもなかったのに(だいたい相手の見解を知りもしないで議論なんかできないだろうに)、「9年も前(実際には7年前なのだが)のことをいまさら蒸し返しても意味がないし、議論なんかしたくない!」と怒鳴る始末。

はいはい、こちらも怒鳴るひと相手に議論どころかまともに話ができるとは思っていませんし、「蒸し返しても意味がない」というのは「意味のある振り返りができない」と解釈しています。文献を教えていただいた時点で、わたしは「ありがとうございます。探して当たってみます」ってところで終了しているのに、どんどん話しつづけたのはそっちじゃないですか。しゃべりたくない口を無理矢理こじ開けたわけでもないのに。

それに、「9年(ほんとは7年)“も”前のこと」をいまだに冷静に振り返ることができていないってことは、まだまだそのひとにとって触れたくない生々しい傷なんだろうなということがうかがえた。せめてその傷を空気にさらして乾かそうとすることすらしてこなかったのかしら。傷口腐ってるのでは? 当事者性べったりのナルシシズムで蓋をして。

自分の傷口を腐らせようが悪化させようが当人の自由だが、そのひとは悩めるニューカマーたちのカウンセリングをやっている。ニューカマーは毎日毎年出てくるわけだから、そういうひとたち向けのケアは必用だが、だれが適任かはまた別の問題。自分の傷を放置しているひとが、いったいどう対処してるんだろう? まさか他人の傷口まで腐らせたり悪化させたりしてるんじゃないでしょうね?

悩めるひとびとの話を「寛容に」受け止めることで自分の傷を癒したつもりになるひとは、どこにでもいる。自分より「弱い」者のケアをすることで自己肯定したり、自分の存在意義を確認したり…要は「弱者」なしではいられない。相手が「弱い」からこそ「寛容に」なれる。そのひとは、悩みを抜け出して「強く」なった者に敵意を向ける。「強い」者には「寛容に」なれないらしい。

「自分ひとりだけが強くなれば、ほかのひとのことなんてどうでもいいと思っているのか? 『お前も強くなれ』じゃ済まないだろう!」というようなことも言われた。そんなこと一言も言ってないし思ってもいないのに。むしろ、あることについて不快感を抱いていたころから、それほど不快に感じなくなるようになったまでのプロセスを、分析的にたどり直したいと思っているからこそ、そのヒントが得られるかと思ってアプローチしてみたのだけれども。まぁ、アプローチの対象を見誤ったらしい。

そのひとのカウンセリングで救われるひともいるのだろう。でも、救われないひとだっている。7年前、当事者のあいだで議論がわき起こったことには、少なくともわたしにとっては意味があった。なかにはもちろんそのひとを攻撃しようと意図したひともいたのかもしれないが、そのひとの発言をきっかけに、あらためて「その問題」について考察しなおしてみようとしたひともたくさんいた。わたしはあらためての考察におおいに刺激されたクチだが、考察や分析では救われないひとたちだって当然いる。

そう思うからこそ、議論の場に一切出てこなかったそのひとは、いったいどう感じていたのだろうかとか、「強くなれ」(とは、議論の場に出たひとたちは言っていないのだけど)以外のカウンセリング・アプローチとはどのようなものかを知りたかったのだが(わたしはいまもむかしも、「いろんな考えかたや克服のしかたがあるし、できる限りのサポートはするけど、あなたにどんな方法が向いているのか、どうしたいのかは自分で決めてね」派である)、そもそものご本人がご自分の傷口をいまだにまったくケアできていないような状況だったので、そんな状態では敵も味方も区別がつかないでしょうし、どちらのスタンスでもない相手を敵だと思い込むのも無理はないですね(いまだに「手負いの熊」かよー)。傷口に触れてしまってさぞかし痛かったでしょうごめんなさいね、いつかカウンセリング行為を通じて癒されるといいですね、である。

でもね。

そのひとは「可哀想な弱者」が声を振り絞って怒りを訴えた、というようなつもりなのだろうが、こちらからすれば、いい年したオヤジが自分に同調しない若者を怒鳴りつけている強権発動の図、でしかない。弱者のふりして強権をふりかざすな、卑怯者め。


交換可能であることの救いとさいわい

今日、とある大学にて、2コマ連続で講義(というかおはなし)をさせていただいた。お声をかけてくださったNさん、ありがとうございました。

ずっとずっと考えつづけていたことを、充分に不充分ではあるけれども、とりあえずの区切りをつけて整理してみることは重要だと思った。締め切りには苦しめられるが、その苦しみを通らないと次の展開がひらけてこない。わたしは基本ぐーたらなので、締め切りという外部装置による試練が必要だ。

自分ひとりで考えることには限界があるし、他人の思考に触れたいという欲望は、わたしの場合、たぶん性欲以上に旺盛だ。

もちろん、講義のためのレジュメをつくるあいだも、参考資料と首っ引きだったのだけれども、物理的には孤独で苦いヨロコビのともなう作業のうちになんとかたどった筋道は、大勢の学生さんの前で(ひとりでいたときと同じようなモードで)なぞりなおしてみると、なんというかつまらないものに感じられた(1コマ目の学生さんたちすみません)。

2コマ目の授業の履修生は1コマ目の3倍以上の人数なので、うつむいてレジュメに沿ってぶつぶつしゃべっているだけでは間がもたなそうだし、学生さんたちの「数のオーラ」に潰されてしまうのではないか、という直感的な不安もあった。

そんなわけで、2コマ目の授業ではかなりリキがはいってしまった。「数のオーラ」を醸し出す学生さんたちに対するプレゼンとしては、たぶん1コマ目よりも効力があったのではないかと思うが、そのぶん独断的というか、自分の価値観を一方的に押しつけてしまったような印象があったのではないかと反省モード。

でも、静かなる情熱のうちに、自分の発した声の調子の強さに自分が鼓舞される滑稽さを自覚しつつも、そのような情熱を発してこそようやく気づいたことがあった。

だれかを大切だと感じるとき、そのだれかが自分にとって「かけがえのない」(交換不可能な)存在であってほしいという<幻想のあなた>信仰を、わたしはかなり強く抱いていたのだなということ。そして、自分もまたそのだれかにとってかけがえのない存在でありたいという<幻想のわたし>信仰も。

<幻想のあなた>が、<現実のあなた>によって破られるとき、<幻想のわたし>は死ぬ。そして、<現実のわたし>だけがごろりと捨て置かれる。<現実のわたし>を捨て置いていたことに気づかされて、激しく痛む。悔やむ。

「愛」のあるセックスも「愛する」ことも、自傷行為の延期のシミュラークルだ。「愛する」ことが<幻想のあなた=幻想のわたし>信仰を強固にしていく営みならば、わたしはそのような「愛」には、もうコミットしない。かけがえのなさという幻想を求めることの虚しさに、ようやく気づいた。

とりかえがきくこと、交換可能性にこそ、救いがあるのかもしれない。<現実のあなた>にとって、わたしの代わりになるだれかがいることはさいわいだ。<現実のわたし>にとって、あなたの代わりになるなにかがあることはさいわいだ。

クロソウスキーのいう「生きた貨幣」の意味が、ほんのちょっとわかりかけた。

約1年前の手記を読んだら、もうすでにそんなようなことが書かれていた(<気づけよ自分)。強がりやハッタリやカッコつけ混じりで勢いにまかせて記したことがらが、いまはしっくりくる(<自己予言? まさかね/笑)。ハッタリもときには重要な役割をするもんだ(違)。

そして、講義でしゃべったことを忠実に逐語起こししたものにはあまたの誤謬があることにも気づかされた。とんでもない愚を犯していた。すみません(<Sさん)。

果てしない反省と改めての気づき。
99の後悔と自己嫌悪、そして1のヨロコビ。

薄曇りのなか、ほんの一点だけ、光が射しているような感じ。

今日はいい日だ。






引きこもりモードでなければ読めない本

相変わらずクロソウスキーはわかりにくくてひねくれている。わりにくいながらもところどころピンとくるフレーズがある。だから止められない。容易に理解可能な本など読む価値がない。それは本ではなくただの実用商品、工業製品だ。

以下は、クロソウスキーの言葉ではなく、彼の著書を翻訳した兼子正勝の解説より。クロソウスキーよりははるかにわかりやすい。なぜならこれは「本家」の解釈、というか「本家」の屋台骨の解説だから。解説がわかりにくかったら話にならん。

 振り返ってみれば、二〇世紀の諸々の言説は、愛や情欲を交換不可能なものとして語りつづけてきた。愛には相手を殺すサディズムか自分を殺すマゾヒズムしかないと言ったサルトルや、あらゆる愛はナルシスティックであると断言したジャック・ラカンをおそらく理論面での頂点として、他者を絶対の<外>として立てつづけるレヴィナス亜流の思想家たちや、他者を欠いたナルシスティックなシミュレーション世界を追認するメディア論者たち、さらには「ひとと触れあうことができない」と嘆きつづける『エヴァンゲリオン』の登場人物まで、いたるところに同じ不可能性の言説が、ときには通俗的に、ときには高尚に、しかしいつも同じように暗いまなざしで徘徊していると思うのは筆者だけだろうか。

 そして、おそらくそれと相関的であるのだろうが、クロソウスキーが『生きた貨幣』を書いてから三〇年を経た現在、社会のほうは本書で「産業的奴隷」と呼ばれているものをいっそう高度に発達させ、スターやアイドルだけでなく、街のだれもが身体的魅力を売買し、同時に売買されるものとしての身体的魅力を追求するようになっているのではないか。産業資本主義と呼ばれるものが、手工業的な世界から身体を解放し、身体をすでにある種のシミュラークルにしたとしたら、現代の高度資本主義と呼ばれるものは、身体のシミュラークル化をいっそう過酷に押し進め、身体のすべてを貨幣に従属させようとしているのではないか。逆に言えば身体は、ブランドやステータスやモードによって記号化され、本来の意味での情欲から切り離されて、「死んだ貨幣」として過酷な流通過程に投げ出されているのではないか。そしてだれもがそのことを漠然と感じているがゆえに、「愛」や「癒し」を求める言説が、逆説的に蔓延しはじめているのではないか。身体はほとんど叫びのようにして、真のコミュニケーションを求めているのではないか。

 それに対してクロソウスキーは言うだろう。あなたが求めているものは、あなたのなかにすでにある。あなたは「生きた貨幣」になればいい。つまり、貨幣に換算される身体を棄て、情欲そのものであるような、無形の欲堂が波立ち騒ぐ身体として、コミュニケーションの回路に入りさえすればいいと。そうすれば愛や情欲はたちどころに交換可能なものとなり、あなたは愛と情欲が自由に流通する世界に生きることができるだろうと。(p161)『生きた貨幣』



さて、問題。引きこもり状態は「死んだ貨幣」か? それとも「生きた貨幣」か?

答え:経済システムの外側に(自ら疎外して/疎外されて)いるので、貨幣ですらない。

 

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