「勝手にやっておれ」というなら、勝手にやれる条件を整えさせろ!
愛の反対は憎しみではなく、無関心だ。文化、教養の反対は無知ではなく、無関心だ。平和の反対は平和と戦争への無関心だ。
Elie Wiesel(アウシュビッツ収容所から生還した作家)
2つ前のエントリで、GIDに関する池田清彦の所感を紹介した。まったくもってその通りだと思ったのだが、『欲望問題』出版記念プロジェクトでは、こんなことを述べている。
私自身はホモにもゲイにもレズにもフェミニズムにも何の興味もないし、勝手にやっておれと思うだけだ。様々な性的嗜好をもつ人が存在するのは事実であるし、それを否定する根拠は全くない。他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。と同時に、どんな人も自分の感性や嗜好を他人に押しつける権利や、他人に理解してもらう権利はない。
「勝手にやって」いられるのなら、だれも抵抗運動なんか起さない。尾辻かな子がレズビアンをカムアウトして政界に出ることもない。池田は「他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である」というが、むしろ非規範的性指向の持ち主のほうこそ、「恣意性の権利を侵食」されている現状だから、それに抵抗しているのである。
しかも「他人に押しつける」とか「他人に理解してもらう」とかいう意味での「権利」がほしいのではない(へーえ池田は「押しつけられる」って感じるのかナイーブだなあw)。「お前もホモになれ、レズになれ」と言っているわけではないし、「理解」なんぞいらないので、非規範的性指向の持ち主たちが安心して暮らせる「権利」をよこせ、と言っているのである。
だが、池田が言うように、マジョリティは「多数派の情緒」を押しつけようとする。それに対して論理や理屈で対抗しても「情緒の逆撫で」をするだけらしいので、運動側としては不本意ながらマジョリティの情緒に訴える方策をとっているまでのこと。なのに池田は、まるで運動側が自主的に情緒的手法を取っているかのように批判する。
池田は友人でもある中島義道の著書を取り上げて、秋葉原や明大前などの騒音、醜い景観に対して腹を立てるセンシティヴな中島についてこう言う。
私は中島の感性や嗜好を理解できないし、理解するつもりもない。ただそういう人がいることは承認する。だから、中島の感性や嗜好を非難するつもりも全くない。勝手にやっておれと思うだけだ。私は、差別されていると感じるマイノリティーに対するマジョリティーの態度として、これ以上の方法を思いつかない。
あらかたの事柄に関してリベラルでも、こと性に関しては、頭が固いというか、わかってないかたがたが多数いらっしゃる。斎藤美奈子もたいがいのことについてはうなずきながら読めるが、「性」や「AC」「依存」の問題に関しては鈍感で、読んでて腹がたつ。となると、どの分野に関しても浅いレベルでの印象論しか書いてないんじゃないかコイツは、と思えてくる。
性は「趣味」でも「嗜好」でもない。ライフスタイルなのだ。だから政治的問題なのだ。なのに、リベラルぶったかたがたは「個人の自由」とかいって、性の問題を矮小化してクローゼットに閉じ込めたがる。実際には「好きにできる」だけの社会的条件が整っていないのに、「好きにやっておれ」と自己責任論を言い立て、欲望の利害調整を対等に行えないアンフェアな構造そのものから目を背けさせる。
もしもの話。生殖が同性間でないと不可能で、同性婚のみが認められており、異性愛は「子孫を残さない不毛な性愛」とされて見えない差別を受けていたとしたら、それで同性愛者たちから「勝手にやっておれ」と口先だけで「承認」されたらどうなの? 「趣味」「嗜好」の問題としておとなしく一元化して、日陰でこそこそやっているんですか池田さん。新宿あたりに小さなコミュニティつくってさ。毎夏パレードなんかやっちゃったりしてさ。
性が個人的な「趣味」や「嗜好」におさまるのは、ヘテロだからですよ。GIDについてはまっとうなご意見を述べることができるのに、同性愛となるととたんに理論的に後退するのはどういうわけですかね。べつにあなたが「ヘテロというクローゼット」におさまっているぶんにはかまいませんけど、ヘテロの性的嗜好とノン・ヘテロの性的指向を一緒にしないでくださいっての。
「好きにやっておれ」ってのは、ヘテロもノン・ヘテロも対等に欲望の利害調整ができる社会状況になってから言ってくださいね。
ちなみにわたしは中島義道の言い分はよくわかる。公共交通機関の過剰なアナウンス、商店街の耳障りなBGMや呼び込みは、住宅街を巡回する竿竹屋や廃品回収業者以上にうるさいし、都市も地方も同一企業の看板や店舗(特にサラ金業やチェーン型ファーストフード、スーパーマーケットなど)で似たり寄ったりの金太郎アメ的景観。これは個人的センスの問題を超えて、全体主義的な暴力ですよ。そういう暴力に鈍感なわりに個人主義を謳う池田さんは、日本という社会システムとともに滅び去るのがいいところではないでしょうか。
バイオロジカルな知恵としての「少子化」
内分泌学者・紫芝良昌の論文(「医学・生物学の知識から見た男と女」『八事』第二十号)によると、本来セックスは何よりも繁殖のためにあるが、その規模は生物が生き残るための環境に支配されている。老人人口が増加している現在、女性のDNAが微妙に感知して、妊娠しないようコントロールしている。つまり、日本の少子化は、社会的制度的要因のみならず、自然調節も関与しているのだという説。
老人が増えすぎるとは、単なる数の問題ではなく、隠居せずに「生涯現役」などと抜かして出しゃばり続ける老人が増えていることを指すのだろう。そういう社会は若者に対する抑圧が強く、気力のない若者を生み出すことにつながる。日本は社会全体が「院政」化しているわけで、新しい生命が誕生しても環境が古いままだと、その抑圧のなかで殺されてしまう。生まれでても抹殺されることが感知されるならば、最初から自粛しようというバイオロジックな対策なのかもしれない。
少子化とは、いわば新しい展開へのひとつのステップである。生命は、見えない形で絶え間なく新しい展開を行っている。「老人」たちが少子化に警鐘を鳴らすのは、古い環境の維持がままならなくなることへのヒロイックな嘆きにすぎない。
生物の性は、単細胞生物の場合でも、オス/メスの2種類では分けられず、それを両極として12〜13の異なる段階がある。生殖上の性だけでもこれだけのバリエーションを持つのだから、そこにジェンダーという係数が加わるヒトの性には、数えきれないほどのタイプがあると考えられる。
紫芝はこの論文で、「ジェンダーには様々な濃淡があるのに、日本では規範に合わないものは尊重しない」と指摘する。人間の生存にかかわる環境には、自然環境だけでなく、社会的な環境もある。人間関係も一種の環境である。性の多様さは、予測不可能な環境の変化に対応していくための、種としての知恵だ。性の多様性は、人類の知恵であり希望だ。なのに、古い環境を維持しようとする老人(必ずしも生物学的高齢者とは限らないが)たちは、若者を決まりきった「性別二元論」という型に押し込めて窒息死させようとしている。
この論文の結論部分はこうだ。「わが国の出生率が急激に減少したのは、女性にDNAの声が聴けるからだろう」。古い環境が消えてなくなるまでは最低限の出生率でやりすごそうという種の知恵が、女性の生理に働きかけて出産抑制スイッチをオンにするのかもしれない。あるいは、男性の生理にも同じ働きかけを行っているのかもしれない。
老人が増えすぎるとは、単なる数の問題ではなく、隠居せずに「生涯現役」などと抜かして出しゃばり続ける老人が増えていることを指すのだろう。そういう社会は若者に対する抑圧が強く、気力のない若者を生み出すことにつながる。日本は社会全体が「院政」化しているわけで、新しい生命が誕生しても環境が古いままだと、その抑圧のなかで殺されてしまう。生まれでても抹殺されることが感知されるならば、最初から自粛しようというバイオロジックな対策なのかもしれない。
少子化とは、いわば新しい展開へのひとつのステップである。生命は、見えない形で絶え間なく新しい展開を行っている。「老人」たちが少子化に警鐘を鳴らすのは、古い環境の維持がままならなくなることへのヒロイックな嘆きにすぎない。
生物の性は、単細胞生物の場合でも、オス/メスの2種類では分けられず、それを両極として12〜13の異なる段階がある。生殖上の性だけでもこれだけのバリエーションを持つのだから、そこにジェンダーという係数が加わるヒトの性には、数えきれないほどのタイプがあると考えられる。
紫芝はこの論文で、「ジェンダーには様々な濃淡があるのに、日本では規範に合わないものは尊重しない」と指摘する。人間の生存にかかわる環境には、自然環境だけでなく、社会的な環境もある。人間関係も一種の環境である。性の多様さは、予測不可能な環境の変化に対応していくための、種としての知恵だ。性の多様性は、人類の知恵であり希望だ。なのに、古い環境を維持しようとする老人(必ずしも生物学的高齢者とは限らないが)たちは、若者を決まりきった「性別二元論」という型に押し込めて窒息死させようとしている。
この論文の結論部分はこうだ。「わが国の出生率が急激に減少したのは、女性にDNAの声が聴けるからだろう」。古い環境が消えてなくなるまでは最低限の出生率でやりすごそうという種の知恵が、女性の生理に働きかけて出産抑制スイッチをオンにするのかもしれない。あるいは、男性の生理にも同じ働きかけを行っているのかもしれない。
「父の息子」は、父を殺さず妹を殺す
珍しく時事ネタ。
2006年12月30日に渋谷区の自宅で起こった、予備校生の次兄(21)が短大生の妹(20)を殺して遺体を切断・隠匿していた事件。
「オレは男だから、息子だから、オヤジの期待に応えなきゃならない。お前は女だから、医者になることは求められていないから、そんな呑気なことを言ってられるんだ!」
と、妹の首を絞めながら彼がそう叫んだかどうかは知らない。
「医者という生き方」から疎外された自由の身であり、女優を目指していた妹からすれば、父母や長兄を見習って「医者という生き方」を踏襲しようとする次兄の姿が、明らかに適性がないにも関わらずその生き方にしがみついている彼の深刻ぶりが、実にバカバカしくて滑稽に見えたはずだ。
現実とは、参加人数がもっとも多いとされるゲーム(虚構)である。
もっとも多いと“される”と記したのは、めいめいの参加者がそう思い込んでいるだけであって、統計的事実ではないからである。だからこそ、自分が信じ込んでいる現実の「虚構性」を突かれたとき、人は動揺を怒りに転嫁して自己防衛する。そのような自己防衛が実は自分を殺し続ける行為であるとも知らずに。
「夢がないね」と妹に指摘されたとき、「その通りだ。オレはオヤジの夢(開業医一家の共同幻想)を生きようとしていただけだった」と素直に己を振り返ることができたなら、彼は自分の真の欲望、真の動機を見つめ直し、別な生き方を模索しはじめたに違いない。
だが、妹の言葉は彼にとってエンパワーやコンシャスネス・レイジング(意識高揚)をもたらすものではなく、彼の信じる価値観を非難・批判する攻撃でしかなかった。そう感じた彼は、「虚構」を「現実」に引き戻すために、「王様の耳はロバの耳だ!」と叫ぶ妹の口を封じるほかなかったのだろう。
「医者にならない生き方」を選択すれば、同じゲームのメンバー(父や長兄)から「負け犬」のレッテルを貼られる。しかし、同じゲームに最初から参入していない部外者(=妹)の言葉からも「負け犬」のメッセージを受け取ってしまうほどに、彼はナイーブだった。部外者のメッセージをまともに受け取ってしまう程度には、彼のなかに「内なる妹(自分の真の生き方を見つけよ、という声)」が棲みついていたのである。
しかし、彼は結局、父と息子のホモソーシャル、つまり家父長制の共犯者となる道を選んだ。彼は自分が犠牲者であるということを認めたくなかった。犠牲者であると自認すれば、彼の怒りの矛先は妹ではなく、父に向けられるはずだ。
彼が殺すべきだったのは、彼の「内なる父(望まない生き方を強制する規範)」であったはずだ。なのに、彼は実際の妹を殺すことで、「内なる妹」までも殺してしまった。
セクシスト(性差別者)という男の伝統を継承した者は、「父(=男)」には逆らえない。その代わり、確実に自分が力を誇示できる弱い相手、つまり、「妹(=女)」に向けて、「甘え」という名の暴力を発揮する。「兄(=男)」に向かって生意気だ、口答えするなと、「甘え」の鉄拳を振りおろす。自分を真に抑圧している構造の変革へと向かえないヘタレっぷり(自尊心の低さに起因する自己嫌悪)を、弱い者を攻撃することで返上しようとする。しかし、こういう鬱憤の晴らしかたは刹那的なものでしかない。彼の本当の敵は妹(=弱者)ではないのだから。
「しっかり勉強しないから夢がかなわない」と言った妹が、次兄には父の姿と重なって見えたのかもしれない。だが、それがすでに医者である父母や長兄から言われたのであれば、彼はなにも言い返せなかっただろう。学力とは直接関係のない「女優」を目指す「短大生」の「妹」に言われたくない、という「男のプライド(見栄)」とやらが怒りに転じたのだろう。
「良識派」や「中立派」のなかには、殺された妹に対して、「お兄ちゃんの立場を思いやって、もっと優しく諭してあげればいいのに」と考える人もいるかもしれない。しかし、「男」というだけで優遇されてきた(三浪してまで医大を目指すことが許されている)兄に、これ以上なにを譲ってやる必要があるだろうか。
彼女の言動を「生意気」で「思いやりにかける」と評するのは、それだけで充分セクシストだ。家父長制のバカらしさを率直に表明した彼女の冥福を、わたしは心から祈りたい。
これは明らかに、ドメスティック・バイオレンスの果ての殺人である(彼にはDVの加害者プログラムを適用すべき。司法モデルー刑罰ーや医療モデルー治療ーでは決して解決しない)。セクシストが「内なる妹(=フェミニズム)」を抹殺した事件である。ということは、別に珍しくもなく、ありふれた事件だってこと。でも、セクシズムはまだまだ再生産され続けているのだということを、フェミニストは肝に銘じなければならない。ああ、しんどい。
2006年12月30日に渋谷区の自宅で起こった、予備校生の次兄(21)が短大生の妹(20)を殺して遺体を切断・隠匿していた事件。
「オレは男だから、息子だから、オヤジの期待に応えなきゃならない。お前は女だから、医者になることは求められていないから、そんな呑気なことを言ってられるんだ!」
と、妹の首を絞めながら彼がそう叫んだかどうかは知らない。
「医者という生き方」から
現実とは、参加人数がもっとも多いとされるゲーム(虚構)である。
もっとも多いと“される”と記したのは、めいめいの参加者がそう思い込んでいるだけであって、統計的事実ではないからである。だからこそ、自分が信じ込んでいる現実の「虚構性」を突かれたとき、人は動揺を怒りに転嫁して自己防衛する。そのような自己防衛が実は自分を殺し続ける行為であるとも知らずに。
「夢がないね」と妹に指摘されたとき、「その通りだ。オレはオヤジの夢(開業医一家の共同幻想)を生きようとしていただけだった」と素直に己を振り返ることができたなら、彼は自分の真の欲望、真の動機を見つめ直し、別な生き方を模索しはじめたに違いない。
だが、妹の言葉は彼にとってエンパワーやコンシャスネス・レイジング(意識高揚)をもたらすものではなく、彼の信じる価値観を非難・批判する攻撃でしかなかった。そう感じた彼は、「虚構」を「現実」に引き戻すために、「王様の耳はロバの耳だ!」と叫ぶ妹の口を封じるほかなかったのだろう。
「医者にならない生き方」を選択すれば、同じゲームのメンバー(父や長兄)から「負け犬」のレッテルを貼られる。しかし、同じゲームに最初から参入していない部外者(=妹)の言葉からも「負け犬」のメッセージを受け取ってしまうほどに、彼はナイーブだった。部外者のメッセージをまともに受け取ってしまう程度には、彼のなかに「内なる妹(自分の真の生き方を見つけよ、という声)」が棲みついていたのである。
しかし、彼は結局、父と息子のホモソーシャル、つまり家父長制の共犯者となる道を選んだ。彼は自分が犠牲者であるということを認めたくなかった。犠牲者であると自認すれば、彼の怒りの矛先は妹ではなく、父に向けられるはずだ。
彼が殺すべきだったのは、彼の「内なる父(望まない生き方を強制する規範)」であったはずだ。なのに、彼は実際の妹を殺すことで、「内なる妹」までも殺してしまった。
セクシスト(性差別者)という男の伝統を継承した者は、「父(=男)」には逆らえない。その代わり、確実に自分が力を誇示できる弱い相手、つまり、「妹(=女)」に向けて、「甘え」という名の暴力を発揮する。「兄(=男)」に向かって生意気だ、口答えするなと、「甘え」の鉄拳を振りおろす。自分を真に抑圧している構造の変革へと向かえないヘタレっぷり(自尊心の低さに起因する自己嫌悪)を、弱い者を攻撃することで返上しようとする。しかし、こういう鬱憤の晴らしかたは刹那的なものでしかない。彼の本当の敵は妹(=弱者)ではないのだから。
「しっかり勉強しないから夢がかなわない」と言った妹が、次兄には父の姿と重なって見えたのかもしれない。だが、それがすでに医者である父母や長兄から言われたのであれば、彼はなにも言い返せなかっただろう。学力とは直接関係のない「女優」を目指す「短大生」の「妹」に言われたくない、という「男のプライド(見栄)」とやらが怒りに転じたのだろう。
「良識派」や「中立派」のなかには、殺された妹に対して、「お兄ちゃんの立場を思いやって、もっと優しく諭してあげればいいのに」と考える人もいるかもしれない。しかし、「男」というだけで優遇されてきた(三浪してまで医大を目指すことが許されている)兄に、これ以上なにを譲ってやる必要があるだろうか。
彼女の言動を「生意気」で「思いやりにかける」と評するのは、それだけで充分セクシストだ。家父長制のバカらしさを率直に表明した彼女の冥福を、わたしは心から祈りたい。
これは明らかに、ドメスティック・バイオレンスの果ての殺人である(彼にはDVの加害者プログラムを適用すべき。司法モデルー刑罰ーや医療モデルー治療ーでは決して解決しない)。セクシストが「内なる妹(=フェミニズム)」を抹殺した事件である。ということは、別に珍しくもなく、ありふれた事件だってこと。でも、セクシズムはまだまだ再生産され続けているのだということを、フェミニストは肝に銘じなければならない。ああ、しんどい。
その後の「恋愛強制社会」
1年ほど前、別名義のHPに恋愛強制社会論序説というエントリを書いた。
ネットで書いたテキストに関してはcopy leftな立場をとっているため、このエントリを読んだ友人が自分のblogにそのままアップした。で、そのエントリの読者のコメントを、この友人がわたしに知らせてくれた。
***
<以下は読者が書いたコメントの転載>
「この世は恋愛強制社会である」と措定していますが、恋愛とは社会が与えたものでしょうか。確かに、結婚という制度は制度だけに社会が与えた、もっと言えば強制しているものと言っていいかもしれません。しかし、恋愛自体が社会が与えたものであるということには何ら根拠がないと思うんですね。恋愛は制度でしょうか?
ただ、おそらくあたなが言わんとしていることは ”社会が恋愛を強制している”ということではないでしょう。恋愛しているから、”人生経験が豊富””すいもあまいも知っている” とか、それ故に ”かっこいい”とか ”偉い”等々・・・これらの ”価値判断”を非難しているということですよね。要するに、社会が何らかの目的のために恋愛という規範を与えているわけではありません。あなたが非難しているところは、社会規範ではなくて上記の一般大衆の恋愛における通念ということですよね。
しかしながら私自身の経験から言わせてもらえば、恋愛している人を羨ましいと思ったことは25年の間に一度もありませんし、自身ノンケの友達が多いのですが彼等も同様です。したがって上記の価値判断が世の中に蔓延っていると措定されても全く実感がありません。さらに言えばゲイは男女の関係よりもより早くセックスに至ることが可能です。したがって、欲望を満たすためにわざわざ恋愛という段階を踏む必要性があまりないという事実を経験的に私たちは知っているはずです。彼氏がいるのにもかかわらず彼氏がいないことにしてフォトメに載せる、純潔な少年を装うために「俺あまり付き合ったりとか恋愛とかしたことないんだよね・・・」等。
ところで、恋愛はセックスに至るまでの単なる過程ではありません。恋愛を肯定しうる理由を以下に三点挙げます。
第1に、恋愛は自身の心の欠落した部分を埋めてくれます。それは漠とした孤独感、コンプレックス・・でも何でもいいですけれども、それはこれこれこうであるというようにここで心理学的分析はできません。私は専門家ではありませんので。しかしもし友達が、恋愛することによって孤独やコンプレックス、漠とした不安だかなんだかを埋めて楽しげにしていたら、羨ましいと思っても仕方ありません。それは自然な感情です。たとえば、貧乏で満足にメシも食えない少年がおいしいご馳走でいつも腹を満たしているのを見れば当然のごとく羨ましがると思います。それはごく自然な感情であり、その感情を抑制するのが ”学習”でしょう。恋愛している人を羨ましがる人は、”心の空腹”の状態にあるのです。
また、恋愛を肯定する価値判断は根拠なき考えではないでしょう。何故なら、動物も恋愛を通じてセックスに至りそして家族を築くことになります。単なる通念というものではなく家族を築く前段階になり得る恋愛はそもそも人間に備わっている自然な欲求だと思います。
さらに、恋愛は古来からあるものです。ただ縄文・弥生時代からあるかどうかは資料がありませんが、古くから恋愛物語はありますし現に当時の人に流行るのです。「源氏物語」や「蜻蛉日記」がそうですよね。流行る=一般大衆が共感したということであり古来から現代までに似たような物語があるのであって画一化した恋愛観を一般大衆に洗脳しているわけではありません。恋愛を必然のものと見做すのは誰かが流行らしたメッセージに拠ってではなく、元来コモンセンス(共通感覚)だったのだと思われます。まるで近代が産み出したかのような余暇を埋めるための単なるパッケージング・アイテムとは思えません。
以上3点が恋愛を肯定的に捉えうる意見ですけれども、あなた自身は「私は別に恋愛を否定しているわけではない」と述べておられてました。しかしながら、パッケージング・アイテム(画一化された観念)と措定することでやはり恋愛自体には否定的なのでしょう。
私(歳を食った私)自身「恋愛は素晴らしきものだ!」とは思いませんし、そのように言う人も見たこともない上そのようなものは少女漫画の世界ではないかと思われます。むしろ恋愛は幻想だと思います。しかしながらその幻想に騙されることがとても刺激的で楽しいのは事実です。恋愛という枠を越えて新たな関係性・・・?その先にはひたすら現実的な現実があるように私は想像します。
***
で、せっかくレスをいただいたので、友人あてにお返事をかえしてみた。
***
んまー、こんな古くて当てずっぽうでいい加減な言説にまともにコメントしてくれたひとがいらっしゃるなんてv
いまのわたしが言えることは3点。
まずは、制度というものは、必ずしも明文化されたものとは限らないし、「社会が与える」前に、すでにひとびとが「やってしまっている」ことの反復に、承認を与える役割を果たすのが制度です。J・S・ミルいわく、「国家の法律と制度は、つねに、個人間にすでに存在している関係をそのまま認めてつくられる。法や制度は、ありのままの事実を権利とする。そしてこれに社会的承認を与える」。
というわけで、いまのわたしは「恋愛は明文化されていない制度である」と言い切っちゃうもんね。
それから、恋愛の起源について。
「恋愛」という日本語は、言文一致政策が行われた明治時代につくられた「造語」。それ以前の日本語に「恋愛」という言葉(=概念)は存在せず、ニュアンスの近いものとしては「色(いろ)」がありました。
ですから、このひとが言うように「恋愛は古来からあるものです」と言ってしまうのはあまりにも粗雑。それはこのひとの勝手な思い込み。「同性愛」という言葉(=概念)も19世紀のヨーロッパで「発明」されたものであり、それ以前の、たとえば古代ギリシャのソクラテスやプラトンを指して「彼らは同性愛者だった」と言うのが誤りなのと同じ。彼らの生きた時代には「同性愛/同性愛者」という言葉も概念もなかったのだから。後世できた概念でそれ以前の過去を規定することはできません。
で、恋愛の起源は中世ヨーロッパにあると言われています。騎士たちが貴族のご夫人たちに恋いこがれたのが起源。要するに、「ひとのモノ」だからこそほしくなる。障害があるから燃え上がる。恋愛の起源は不倫と同義なのでした。だから、二人のあいだでなんの障害もなくただイチャイチャしたりヌルヌルグチョグチョしたりする関係は、厳密には「恋愛」とは言えないのですよ。ロミオとジュリエット、トリスタンとイゾルデ、ポパイとオリーブなどなど、著名なカップルストーリーは多々ありますが、二人のあいだを邪魔する存在によって、二人はよりいっそう強く結ばれようとする、それが恋愛のキモでしょう。
あと、もうひとつ。
「あたなが言わんとしていることは……ということですよね」って、わたしが言おうとしていることはすでに書いてありますよ。なんでいちいち確認されなきゃならんのでしょう。「あなたの言いたいのは」と書きながら、このひとは自分の考えを披瀝しているだけですね。
そもそもはなから、「恋愛強制社会」を「恋愛とは社会が与えたものである」だなんて、わたしゃ一言も書いてないんだけどね。ただの雑文なのでわたしにも言葉足らず思考不足なところがあるけれど、それにしてもずいぶん短絡的な読みかただよな。
最後にもうひとつ(4つになっちゃった)。ゲイ男性の問題は、セックスはできても恋愛ができないこと。それは、ゲイのみならず「男性ジェンダー」の悪しき特徴です。ヘテロ男性にもセックスできても恋愛できないひとは多い。「釣った魚にエサをやらない」わけね。セックスしたくらいで「釣った」と思えるなんて、おめでたい限りですがね。他者とインスタントで浅い関わりしかできないことが「男性ジェンダー」の問題点です。
中世にはじまった「恋愛」の障害は二者の「外側」にあったけれど、現代の恋愛の障害は二者の「内側」、つまり関係性のなかにあります。わたし個人は、恋愛を「関係性の病理」のひとつととらえています。なので、このひとの「恋愛は自身の心の欠落した部分を埋めてくれます」なんて見解は、ずいぶん他力本願でお気楽だなぁという感じ。むしろわたしにとっての恋愛は、お互いの存在をかけておのおのの魂を削っていくような激しい営みです。これができる相手はそうそういませんし、ずっとこんなことやってたら廃人になります。だから恋愛は期限付き。このひとの言うようなお気楽恋愛は、そういう意味では疑似恋愛、恋愛ごっこみたいなもの。
わたしがこの雑文を書いたときは、おそらく、結婚にあこがれるひとたちと恋愛にあこがれるひとたちが同じように見えたことが原点だったんだろうなと思います。あこがれる気持ちを「自然」な感情だと思い込み、この高度な商業化社会、産業社会によって結婚や恋愛がたくみに商品化されていることに、疑念を感じるどころか背中を押してもらっているつもりでいるのが気持ち悪いな、と。企業がデザイン・演出したデートスポットに猫も杓子もこぞって出かけていったりしてさ。
どいつもこいつも金太郎あめみたいな恋愛ばっかしやがって、というオリジナリティのなさに対する脱力感を「パッケージ恋愛」と表現したかったのでしょう、たぶん。制度化ってのは無個性化と同義ですから。お、これで最初に戻ったぞv
こんなところかな。
<以上、お返事おわり>
***
コメントはありがたいけれども、この読者さん、わたしのエントリの3つのパラグラフのうち、最後のパラグラフに関してはなにも書いてないんだよな。書いてないってことは考えていないも同然だと勝手に決めつけちゃいますよー。
***
もとのエントリにも今回のレスにも書ききれていなかったこと。
恋愛を強制している「実体的主体(『なにが』に相当する原因)」を追い求めてもしかたがない。むしろ実体なきなにものか(規範としかいいようがないかな?)に「思いこまされている」と感じることがなく、結婚や恋愛や賃労働を求めるのが「当たり前」で、「自分のなかから自然にわき起こる欲求」であると思いこむことに問題があるとわたしは思っている。
「考え出すときりがない」を言い訳に自己言及を停止してしまうこと。それが問題だ。
ネットで書いたテキストに関してはcopy leftな立場をとっているため、このエントリを読んだ友人が自分のblogにそのままアップした。で、そのエントリの読者のコメントを、この友人がわたしに知らせてくれた。
***
<以下は読者が書いたコメントの転載>
「この世は恋愛強制社会である」と措定していますが、恋愛とは社会が与えたものでしょうか。確かに、結婚という制度は制度だけに社会が与えた、もっと言えば強制しているものと言っていいかもしれません。しかし、恋愛自体が社会が与えたものであるということには何ら根拠がないと思うんですね。恋愛は制度でしょうか?
ただ、おそらくあたなが言わんとしていることは ”社会が恋愛を強制している”ということではないでしょう。恋愛しているから、”人生経験が豊富””すいもあまいも知っている” とか、それ故に ”かっこいい”とか ”偉い”等々・・・これらの ”価値判断”を非難しているということですよね。要するに、社会が何らかの目的のために恋愛という規範を与えているわけではありません。あなたが非難しているところは、社会規範ではなくて上記の一般大衆の恋愛における通念ということですよね。
しかしながら私自身の経験から言わせてもらえば、恋愛している人を羨ましいと思ったことは25年の間に一度もありませんし、自身ノンケの友達が多いのですが彼等も同様です。したがって上記の価値判断が世の中に蔓延っていると措定されても全く実感がありません。さらに言えばゲイは男女の関係よりもより早くセックスに至ることが可能です。したがって、欲望を満たすためにわざわざ恋愛という段階を踏む必要性があまりないという事実を経験的に私たちは知っているはずです。彼氏がいるのにもかかわらず彼氏がいないことにしてフォトメに載せる、純潔な少年を装うために「俺あまり付き合ったりとか恋愛とかしたことないんだよね・・・」等。
ところで、恋愛はセックスに至るまでの単なる過程ではありません。恋愛を肯定しうる理由を以下に三点挙げます。
第1に、恋愛は自身の心の欠落した部分を埋めてくれます。それは漠とした孤独感、コンプレックス・・でも何でもいいですけれども、それはこれこれこうであるというようにここで心理学的分析はできません。私は専門家ではありませんので。しかしもし友達が、恋愛することによって孤独やコンプレックス、漠とした不安だかなんだかを埋めて楽しげにしていたら、羨ましいと思っても仕方ありません。それは自然な感情です。たとえば、貧乏で満足にメシも食えない少年がおいしいご馳走でいつも腹を満たしているのを見れば当然のごとく羨ましがると思います。それはごく自然な感情であり、その感情を抑制するのが ”学習”でしょう。恋愛している人を羨ましがる人は、”心の空腹”の状態にあるのです。
また、恋愛を肯定する価値判断は根拠なき考えではないでしょう。何故なら、動物も恋愛を通じてセックスに至りそして家族を築くことになります。単なる通念というものではなく家族を築く前段階になり得る恋愛はそもそも人間に備わっている自然な欲求だと思います。
さらに、恋愛は古来からあるものです。ただ縄文・弥生時代からあるかどうかは資料がありませんが、古くから恋愛物語はありますし現に当時の人に流行るのです。「源氏物語」や「蜻蛉日記」がそうですよね。流行る=一般大衆が共感したということであり古来から現代までに似たような物語があるのであって画一化した恋愛観を一般大衆に洗脳しているわけではありません。恋愛を必然のものと見做すのは誰かが流行らしたメッセージに拠ってではなく、元来コモンセンス(共通感覚)だったのだと思われます。まるで近代が産み出したかのような余暇を埋めるための単なるパッケージング・アイテムとは思えません。
以上3点が恋愛を肯定的に捉えうる意見ですけれども、あなた自身は「私は別に恋愛を否定しているわけではない」と述べておられてました。しかしながら、パッケージング・アイテム(画一化された観念)と措定することでやはり恋愛自体には否定的なのでしょう。
私(歳を食った私)自身「恋愛は素晴らしきものだ!」とは思いませんし、そのように言う人も見たこともない上そのようなものは少女漫画の世界ではないかと思われます。むしろ恋愛は幻想だと思います。しかしながらその幻想に騙されることがとても刺激的で楽しいのは事実です。恋愛という枠を越えて新たな関係性・・・?その先にはひたすら現実的な現実があるように私は想像します。
***
で、せっかくレスをいただいたので、友人あてにお返事をかえしてみた。
***
んまー、こんな古くて当てずっぽうでいい加減な言説にまともにコメントしてくれたひとがいらっしゃるなんてv
いまのわたしが言えることは3点。
まずは、制度というものは、必ずしも明文化されたものとは限らないし、「社会が与える」前に、すでにひとびとが「やってしまっている」ことの反復に、承認を与える役割を果たすのが制度です。J・S・ミルいわく、「国家の法律と制度は、つねに、個人間にすでに存在している関係をそのまま認めてつくられる。法や制度は、ありのままの事実を権利とする。そしてこれに社会的承認を与える」。
というわけで、いまのわたしは「恋愛は明文化されていない制度である」と言い切っちゃうもんね。
それから、恋愛の起源について。
「恋愛」という日本語は、言文一致政策が行われた明治時代につくられた「造語」。それ以前の日本語に「恋愛」という言葉(=概念)は存在せず、ニュアンスの近いものとしては「色(いろ)」がありました。
ですから、このひとが言うように「恋愛は古来からあるものです」と言ってしまうのはあまりにも粗雑。それはこのひとの勝手な思い込み。「同性愛」という言葉(=概念)も19世紀のヨーロッパで「発明」されたものであり、それ以前の、たとえば古代ギリシャのソクラテスやプラトンを指して「彼らは同性愛者だった」と言うのが誤りなのと同じ。彼らの生きた時代には「同性愛/同性愛者」という言葉も概念もなかったのだから。後世できた概念でそれ以前の過去を規定することはできません。
で、恋愛の起源は中世ヨーロッパにあると言われています。騎士たちが貴族のご夫人たちに恋いこがれたのが起源。要するに、「ひとのモノ」だからこそほしくなる。障害があるから燃え上がる。恋愛の起源は不倫と同義なのでした。だから、二人のあいだでなんの障害もなくただイチャイチャしたりヌルヌルグチョグチョしたりする関係は、厳密には「恋愛」とは言えないのですよ。ロミオとジュリエット、トリスタンとイゾルデ、ポパイとオリーブなどなど、著名なカップルストーリーは多々ありますが、二人のあいだを邪魔する存在によって、二人はよりいっそう強く結ばれようとする、それが恋愛のキモでしょう。
あと、もうひとつ。
「あたなが言わんとしていることは……ということですよね」って、わたしが言おうとしていることはすでに書いてありますよ。なんでいちいち確認されなきゃならんのでしょう。「あなたの言いたいのは」と書きながら、このひとは自分の考えを披瀝しているだけですね。
そもそもはなから、「恋愛強制社会」を「恋愛とは社会が与えたものである」だなんて、わたしゃ一言も書いてないんだけどね。ただの雑文なのでわたしにも言葉足らず思考不足なところがあるけれど、それにしてもずいぶん短絡的な読みかただよな。
最後にもうひとつ(4つになっちゃった)。ゲイ男性の問題は、セックスはできても恋愛ができないこと。それは、ゲイのみならず「男性ジェンダー」の悪しき特徴です。ヘテロ男性にもセックスできても恋愛できないひとは多い。「釣った魚にエサをやらない」わけね。セックスしたくらいで「釣った」と思えるなんて、おめでたい限りですがね。他者とインスタントで浅い関わりしかできないことが「男性ジェンダー」の問題点です。
中世にはじまった「恋愛」の障害は二者の「外側」にあったけれど、現代の恋愛の障害は二者の「内側」、つまり関係性のなかにあります。わたし個人は、恋愛を「関係性の病理」のひとつととらえています。なので、このひとの「恋愛は自身の心の欠落した部分を埋めてくれます」なんて見解は、ずいぶん他力本願でお気楽だなぁという感じ。むしろわたしにとっての恋愛は、お互いの存在をかけておのおのの魂を削っていくような激しい営みです。これができる相手はそうそういませんし、ずっとこんなことやってたら廃人になります。だから恋愛は期限付き。このひとの言うようなお気楽恋愛は、そういう意味では疑似恋愛、恋愛ごっこみたいなもの。
わたしがこの雑文を書いたときは、おそらく、結婚にあこがれるひとたちと恋愛にあこがれるひとたちが同じように見えたことが原点だったんだろうなと思います。あこがれる気持ちを「自然」な感情だと思い込み、この高度な商業化社会、産業社会によって結婚や恋愛がたくみに商品化されていることに、疑念を感じるどころか背中を押してもらっているつもりでいるのが気持ち悪いな、と。企業がデザイン・演出したデートスポットに猫も杓子もこぞって出かけていったりしてさ。
どいつもこいつも金太郎あめみたいな恋愛ばっかしやがって、というオリジナリティのなさに対する脱力感を「パッケージ恋愛」と表現したかったのでしょう、たぶん。制度化ってのは無個性化と同義ですから。お、これで最初に戻ったぞv
こんなところかな。
<以上、お返事おわり>
***
コメントはありがたいけれども、この読者さん、わたしのエントリの3つのパラグラフのうち、最後のパラグラフに関してはなにも書いてないんだよな。書いてないってことは考えていないも同然だと勝手に決めつけちゃいますよー。
***
もとのエントリにも今回のレスにも書ききれていなかったこと。
恋愛を強制している「実体的主体(『なにが』に相当する原因)」を追い求めてもしかたがない。むしろ実体なきなにものか(規範としかいいようがないかな?)に「思いこまされている」と感じることがなく、結婚や恋愛や賃労働を求めるのが「当たり前」で、「自分のなかから自然にわき起こる欲求」であると思いこむことに問題があるとわたしは思っている。
「考え出すときりがない」を言い訳に自己言及を停止してしまうこと。それが問題だ。
半径50cmの奇妙な関係性
気になって気になってしかたがない。
喫茶店を訪れる二人組の関係性が。
たとえば、初老の男女カップル。
男は新聞を開いて読んでいる。
女は注文のコーヒーを運んでくる。
男は黙って飲む。
女は新聞を読む男をただじっと見ている。
ときどきコーヒーをすすりながら「熱い」と言って笑う。
男はまったく無反応。
そして女は男の読む新聞を覗き込み、
男が新聞をめくって折り返すのを手伝ったりする。
なんか気持ち悪い。
男はまるっきり子どもで、女は母親みたいだ。
たとえば、中年女とその母親(義母?)と思われる二人組。
母親は耳も遠く、手つきもおぼつかない。
そんな母親を、中年女は子ども扱いする。
バカにしたように、「そんなこともできないの?」と言いたげに、
本人が望んでもいない世話を焼く。
一生懸命お説教をする。
棺桶にほとんど両足つっこんでる老人相手に
さも偉そうに説教してなにが面白いんだろうか。
他者に関心を寄せて世話を焼くことで自分の存在意義を確認しているような。
その前に自分自身の生きかたを見つめ直したらどうですか。
ああ気持ち悪い。
気になって気になって読書に集中できない。
たぶん、当人たちは十年一日のごとく、
こんなような日常を重ねてきたのだろうから、
自分たちのやり取り、空気感の不気味さ奇妙さには、
まったく気づかないんだろうな。
その点、どちらも20代とおぼしき男女カップルは好印象だった。
恋人関係ではないみたいだけど。
男のほうは、最近母親の買い物につき合ってあげたらしい。
女はただの聞き役ではないし、言いたいことをしゃべっている。
男はきちんとレスポンスしている。
会話が成立している。
少なくとも、こんな状況ではない。
いいぞ、若者たち!
最低限以上の衣食住が整っている「先進国」では、
家族、対人関係においてより高度なコミュニケーションが求められている。
親や夫は、ただ経済的に子や妻を養っていればいいというものではない。
二言目には、「誰のおかげで生活できてると思っているんだ!」
なんて怒鳴るバカ男とは、コミュニケーションが成立しません。
我が父親も同様。再教育の望みはなし。
喫茶店を訪れる二人組の関係性が。
たとえば、初老の男女カップル。
男は新聞を開いて読んでいる。
女は注文のコーヒーを運んでくる。
男は黙って飲む。
女は新聞を読む男をただじっと見ている。
ときどきコーヒーをすすりながら「熱い」と言って笑う。
男はまったく無反応。
そして女は男の読む新聞を覗き込み、
男が新聞をめくって折り返すのを手伝ったりする。
なんか気持ち悪い。
男はまるっきり子どもで、女は母親みたいだ。
たとえば、中年女とその母親(義母?)と思われる二人組。
母親は耳も遠く、手つきもおぼつかない。
そんな母親を、中年女は子ども扱いする。
バカにしたように、「そんなこともできないの?」と言いたげに、
本人が望んでもいない世話を焼く。
一生懸命お説教をする。
棺桶にほとんど両足つっこんでる老人相手に
さも偉そうに説教してなにが面白いんだろうか。
他者に関心を寄せて世話を焼くことで自分の存在意義を確認しているような。
その前に自分自身の生きかたを見つめ直したらどうですか。
ああ気持ち悪い。
気になって気になって読書に集中できない。
たぶん、当人たちは十年一日のごとく、
こんなような日常を重ねてきたのだろうから、
自分たちのやり取り、空気感の不気味さ奇妙さには、
まったく気づかないんだろうな。
その点、どちらも20代とおぼしき男女カップルは好印象だった。
恋人関係ではないみたいだけど。
男のほうは、最近母親の買い物につき合ってあげたらしい。
女はただの聞き役ではないし、言いたいことをしゃべっている。
男はきちんとレスポンスしている。
会話が成立している。
少なくとも、こんな状況ではない。
いいぞ、若者たち!
最低限以上の衣食住が整っている「先進国」では、
家族、対人関係においてより高度なコミュニケーションが求められている。
親や夫は、ただ経済的に子や妻を養っていればいいというものではない。
二言目には、「誰のおかげで生活できてると思っているんだ!」
なんて怒鳴るバカ男とは、コミュニケーションが成立しません。
我が父親も同様。再教育の望みはなし。
「男とか女とか、性別なんて関係ない」ってのもねぇ
このごろ、学校でのいじめ問題が紛糾してますね。
で、「自分の学校ではいじめはなかった」なんて、
能天気なことをのたまうひともいて。
それ、あなたが気づかなかっただけじゃないの?
「なかった」って、なぜ言い切れる? あなた神さま?
気づかなかっただけなのに、自分の鈍感さを棚にあげて、
さもそれが「客観的」な視点であるかのように語る。
自分の視点を疑いもしない、幸せなひとなんだなぁと
羨ましくなるくらいです(もちろん皮肉)。
「男とか女とか、性別なんて関係ない」
「いまどき性差別なんてないでしょう」
「私は差別されたこともしたこともありません」
と発言するひとにも、これと同種の鈍感さを感じる。
わたしだって、「性別なんか関係ない」と言いたいですよ。
でも、ジェンダー規範の洗礼を受けてきたのは確かで、
自分がその制度から完全に自由になっているとはまったく思っていない。
もし、性差別が存在しないのなら、
どうして日本の女性の雇用曲線はいまだにM字型なんでしょう?
大企業の役員や大学の教授職、国会議員の男女比に格差があるのはなぜ?
「それは女性が家庭に入ることを望んでいるから」ですって?
「女より男のほうが優秀だから」ですって?
そういう発想自体が差別的だってことに気づいてますか?
いじめはある、性差別は存在する、という認識を持たなければ、
いじめや性差別の問題はどうにもならない。
「ない」ことにされているのがそもそも問題なのだ。
だから、「みんな平等」「性別なんて関係ない」なんて、
一足飛びに能天気なことは言えない。言いたくない。
わたしが「女性」を好きな理由も、性差別と決して無縁ではないのだ。
いまはそう確信している。
で、「自分の学校ではいじめはなかった」なんて、
能天気なことをのたまうひともいて。
それ、あなたが気づかなかっただけじゃないの?
「なかった」って、なぜ言い切れる? あなた神さま?
気づかなかっただけなのに、自分の鈍感さを棚にあげて、
さもそれが「客観的」な視点であるかのように語る。
自分の視点を疑いもしない、幸せなひとなんだなぁと
羨ましくなるくらいです(もちろん皮肉)。
「男とか女とか、性別なんて関係ない」
「いまどき性差別なんてないでしょう」
「私は差別されたこともしたこともありません」
と発言するひとにも、これと同種の鈍感さを感じる。
わたしだって、「性別なんか関係ない」と言いたいですよ。
でも、ジェンダー規範の洗礼を受けてきたのは確かで、
自分がその制度から完全に自由になっているとはまったく思っていない。
もし、性差別が存在しないのなら、
どうして日本の女性の雇用曲線はいまだにM字型なんでしょう?
大企業の役員や大学の教授職、国会議員の男女比に格差があるのはなぜ?
「それは女性が家庭に入ることを望んでいるから」ですって?
「女より男のほうが優秀だから」ですって?
そういう発想自体が差別的だってことに気づいてますか?
いじめはある、性差別は存在する、という認識を持たなければ、
いじめや性差別の問題はどうにもならない。
「ない」ことにされているのがそもそも問題なのだ。
だから、「みんな平等」「性別なんて関係ない」なんて、
一足飛びに能天気なことは言えない。言いたくない。
わたしが「女性」を好きな理由も、性差別と決して無縁ではないのだ。
いまはそう確信している。
「たまたま」ってなんだよ?
「好きになった相手が、たまたま同性だった」
よく聞きます、この言葉。
つっか、もういい加減聞き飽きた。
この言い方にはずいぶん前から違和感があった。
そう、10代のころから。
初めてこの言葉を知ったときには、
「自分がレズビアンである」ことを自認するためのものとして、
肯定的に使われていたと記憶している。
ところが、いつのまにやら、
同性を愛しても、同性とセックスしても、
「自分はレズビアンではない」と言い聞かせるための、
カモヘテ(カモフラージュしているヘテロ。私的造語)にとって
都合のいいエクスキューズとして用いられるようにもなっている。
なんかヘンだ。
「たまたま」って、どういうこと? 偶然?
めったにないこと? 偶発的アクシデント? 犬に噛まれたようなもの?
だって、ヘテロ女性は異性と恋愛するときに、
「好きになった相手がたまたま異性だった」とは言わないよね。
聞いたことない。
「偶然」も「必然」も、
ひとつの事象をそれぞれ別な側面から見たときの、
解釈の違いである、とわたしは考えている。
で、異性を好きになるのが「必然」(「当たり前」ってことでしょ?)であって、
同性を好きになるのは「偶然」(めったにないことなの?)っていうふうに、
対象の性別によって解釈が自動的に振り分けられてしまうのは、
同性愛に対するなんらかの防衛装置が働いているからではないのか。
わたし自身は「好きになったのがたまたま同性だった」なんて、
口が裂けても決して言わない。
むしろ、「好きになったのがたまたま異性でした☆」
って言えるようなレズビアンになってみてーやv
よく聞きます、この言葉。
つっか、もういい加減聞き飽きた。
この言い方にはずいぶん前から違和感があった。
そう、10代のころから。
初めてこの言葉を知ったときには、
「自分がレズビアンである」ことを自認するためのものとして、
肯定的に使われていたと記憶している。
ところが、いつのまにやら、
同性を愛しても、同性とセックスしても、
「自分はレズビアンではない」と言い聞かせるための、
カモヘテ(カモフラージュしているヘテロ。私的造語)にとって
都合のいいエクスキューズとして用いられるようにもなっている。
なんかヘンだ。
「たまたま」って、どういうこと? 偶然?
めったにないこと? 偶発的アクシデント? 犬に噛まれたようなもの?
だって、ヘテロ女性は異性と恋愛するときに、
「好きになった相手がたまたま異性だった」とは言わないよね。
聞いたことない。
「偶然」も「必然」も、
ひとつの事象をそれぞれ別な側面から見たときの、
解釈の違いである、とわたしは考えている。
で、異性を好きになるのが「必然」(「当たり前」ってことでしょ?)であって、
同性を好きになるのは「偶然」(めったにないことなの?)っていうふうに、
対象の性別によって解釈が自動的に振り分けられてしまうのは、
同性愛に対するなんらかの防衛装置が働いているからではないのか。
わたし自身は「好きになったのがたまたま同性だった」なんて、
口が裂けても決して言わない。
むしろ、「好きになったのがたまたま異性でした☆」
って言えるようなレズビアンになってみてーやv
中年の純愛ってエロいよな
特定の誰かと恋人になりたいと思うのは、欲張りだと思ってた。
そのひとは「ずっとあなたを失いたくないから友だちになりたい」と言った。
なんだかそのほうがとても貪欲で贅沢な気がしてきた。
わたしはといえば、心から好きなひととは友だちにすらなれない。
片思いで充分だと思っていた。
中年にさしかかって、純愛にトライしてみようと思う今日このごろ。
好きなひとと、共依存ではなく、親密な関係を築きたい。
離れていても、お互いを思う気持ちは失われず、かといって過剰に執着しない関係。
相手を束縛せず、好きでいるだけでエネルギーがわいてくるような関係。
理想論でしょうかねぇ。
けど、理想は常にエロティックなものを多分にはらんでいる。
整合性だけに特化された理想って、なにか大事なものが殺ぎ落とされている気がする。
そのひとは、動物のようなアクティブさはないけれど、
大地に地下茎をしっかり根ざしている植物のようなタフさがある。
ゆっくりとしたテンポでじっくりものごとを吟味する姿勢が好きだ。
にしても。
うつになりそう(汗)。
この年になって純愛を求めるなんて、自分の身の丈には合わないのかなぁと思ったり。
それでも、「もう限界!」ってところまでは進んでみるんだろうな。
自分の精神的濃厚さ/淡白さの度合いがはかられる。
そのひとは「ずっとあなたを失いたくないから友だちになりたい」と言った。
なんだかそのほうがとても貪欲で贅沢な気がしてきた。
わたしはといえば、心から好きなひととは友だちにすらなれない。
片思いで充分だと思っていた。
中年にさしかかって、純愛にトライしてみようと思う今日このごろ。
好きなひとと、共依存ではなく、親密な関係を築きたい。
離れていても、お互いを思う気持ちは失われず、かといって過剰に執着しない関係。
相手を束縛せず、好きでいるだけでエネルギーがわいてくるような関係。
理想論でしょうかねぇ。
けど、理想は常にエロティックなものを多分にはらんでいる。
整合性だけに特化された理想って、なにか大事なものが殺ぎ落とされている気がする。
そのひとは、動物のようなアクティブさはないけれど、
大地に地下茎をしっかり根ざしている植物のようなタフさがある。
ゆっくりとしたテンポでじっくりものごとを吟味する姿勢が好きだ。
にしても。
うつになりそう(汗)。
この年になって純愛を求めるなんて、自分の身の丈には合わないのかなぁと思ったり。
それでも、「もう限界!」ってところまでは進んでみるんだろうな。
自分の精神的濃厚さ/淡白さの度合いがはかられる。
transform
なにかの拍子に顔つきもキャラクターも考えかたもがらりと変わってしまうひと。
そんなひとを、これまで何人か目の当たりにしてきた。
つき合う相手や状況に合わせて違う自分になってしまえるひとが、
羨ましいような、ちょっと寂しいような。
人は弱いもので、愛する者が自分に良くしてくれるようになると信じたい。
しかし「他人は決して自分の都合のいいように変わらない」という原則がある。
もちろん、どんな状況でもまったく変わらない恒常的なひともいる。
押しても引いても化学変化が起こらないほど安定している。
腹立たしいほど安定している。
引き出しの増やしようがない。
そして、わたしでは無理なんだと諦める。執着を捨てる。
誰かとのおつきあいで、自分のなかの新たな引き出しが増える。
その引き出しは、もうそのひとと一緒に開いてシェアすることができなくなっても、
ほかの誰かと出会ったとき、あのとき一緒につくった引き出しが、ふと開く。
その誰かとシェアする。切ない思いとともに。
久しぶりに会った友人に「変わったね」と言われる。
自分の変化は自分では気づかないけれど、
わたしもやっぱりtransformしているんだな。
変化の多い人生は、出会いと別れも多い。
それが自分の豊かさにつながることを願いつつ。
そんなひとを、これまで何人か目の当たりにしてきた。
つき合う相手や状況に合わせて違う自分になってしまえるひとが、
羨ましいような、ちょっと寂しいような。
人は弱いもので、愛する者が自分に良くしてくれるようになると信じたい。
しかし「他人は決して自分の都合のいいように変わらない」という原則がある。
もちろん、どんな状況でもまったく変わらない恒常的なひともいる。
押しても引いても化学変化が起こらないほど安定している。
腹立たしいほど安定している。
引き出しの増やしようがない。
そして、わたしでは無理なんだと諦める。執着を捨てる。
誰かとのおつきあいで、自分のなかの新たな引き出しが増える。
その引き出しは、もうそのひとと一緒に開いてシェアすることができなくなっても、
ほかの誰かと出会ったとき、あのとき一緒につくった引き出しが、ふと開く。
その誰かとシェアする。切ない思いとともに。
久しぶりに会った友人に「変わったね」と言われる。
自分の変化は自分では気づかないけれど、
わたしもやっぱりtransformしているんだな。
変化の多い人生は、出会いと別れも多い。
それが自分の豊かさにつながることを願いつつ。
鏡、時差、離脱と変化
それは彼女の気の優しさ、気持ちの揺れ、迷い、自信のなさ、照れなどを覆い隠すための恥じらいと躊躇のポーズであり、だからこそ彼女のそのような内面を端的に示していたのかもしれない。しかし彼女の恥じらいと躊躇は常に傲岸不遜で投げやりでひねくれた態度となってあらわれた。十にも満たない子どもならまだしも、三十路をとうに越えた大人のそのような態度ははなはだ不誠実というほかない。そしてその不誠実さはわたしのものだ。彼女はわたしそのものだった。銅像のように固まって身動きがとれなくなるその姿は、見るに耐えないわたし自身の姿だ。
Read More ↓
***
いつまでも変わらない<あなたーわたし>を見るのは耐えられない。そう思ってその場を去ることは相手との関係構築を放棄することである。しかし、それは同時に<あなたーわたし>を独立へ導くアクションでもある。いますぐ踵を返して<あなたーわたし>のもとに戻れば、<あなたーわたし>は受け入れてくれるだろう。でもそれではダメなのだ。変わらないままなのだ。
変化は常に起こっている。ただ、そばにいる<あなたーわたし>にはそれが見えないだけ。<あなたーわたし>がその場から離れていったとき、変化はようやく目に見えるものになっていく(でもその場にいない<あなたーわたし>には結局見届けることができない!)。なぜ<あなたーわたし>にそれが見えなかったか。<あなたーわたし>自身が変化を起こしているから。だから<あなたーわたし>はここから去らねばならなかった。<あなたーわたし>の変化をより促すために。
***
親密な相手との別れが辛いのは、これまで慣れ親しんだ自分との決別とイコールだから。お互いが一体化していればいるほど、別離には身が引き裂かれるような苦痛を伴う。そして新しい未知の自分と出会うことに不安をおぼえる。その人のいない明日からの日々をどうやって生きていけばいいのか分からず混乱し戸惑いながらも変化を促し受け入れるしかない。心細さに泣きながら眠り明日がくるのを恐れつつ否応もなく迎える。そしてそのうち泣かずに済むようになる。おそらくきっと。
帰りの電車で思わず涙がこぼれてきた。いまが哀しく辛いのではない。この期に及んでようやく、キミの愛の深さを思い知らされたからだ。あのときのキミも、こんなふうに身が引き絞られる思いをしたのだろうか。それを思うと胸が詰まる。キミの根気とひたむきさを失わせるほどの自分の変わらなさ、身動きのとれなさがいまだに恨めしい。
***
突然、「仕事の顔」ってカモフラージュなのだと諒解。仕事ではどんなに詰め寄られても与えられた「役割」を演じているだけだから決定的なダメージを受けずに済む。「役割」を離れたむき出しの個人は、いくつになっても脆くて幼稚なままだ。
いつまでも変わらない<あなたーわたし>を見るのは耐えられない。そう思ってその場を去ることは相手との関係構築を放棄することである。しかし、それは同時に<あなたーわたし>を独立へ導くアクションでもある。いますぐ踵を返して<あなたーわたし>のもとに戻れば、<あなたーわたし>は受け入れてくれるだろう。でもそれではダメなのだ。変わらないままなのだ。
変化は常に起こっている。ただ、そばにいる<あなたーわたし>にはそれが見えないだけ。<あなたーわたし>がその場から離れていったとき、変化はようやく目に見えるものになっていく(でもその場にいない<あなたーわたし>には結局見届けることができない!)。なぜ<あなたーわたし>にそれが見えなかったか。<あなたーわたし>自身が変化を起こしているから。だから<あなたーわたし>はここから去らねばならなかった。<あなたーわたし>の変化をより促すために。
***
親密な相手との別れが辛いのは、これまで慣れ親しんだ自分との決別とイコールだから。お互いが一体化していればいるほど、別離には身が引き裂かれるような苦痛を伴う。そして新しい未知の自分と出会うことに不安をおぼえる。その人のいない明日からの日々をどうやって生きていけばいいのか分からず混乱し戸惑いながらも変化を促し受け入れるしかない。心細さに泣きながら眠り明日がくるのを恐れつつ否応もなく迎える。そしてそのうち泣かずに済むようになる。おそらくきっと。
帰りの電車で思わず涙がこぼれてきた。いまが哀しく辛いのではない。この期に及んでようやく、キミの愛の深さを思い知らされたからだ。あのときのキミも、こんなふうに身が引き絞られる思いをしたのだろうか。それを思うと胸が詰まる。キミの根気とひたむきさを失わせるほどの自分の変わらなさ、身動きのとれなさがいまだに恨めしい。
***
突然、「仕事の顔」ってカモフラージュなのだと諒解。仕事ではどんなに詰め寄られても与えられた「役割」を演じているだけだから決定的なダメージを受けずに済む。「役割」を離れたむき出しの個人は、いくつになっても脆くて幼稚なままだ。
