母娘3代にわたる家父長制犠牲の連鎖
『VOLVER ボルベール<帰郷>』
公開初日の初回、TOHOシネマズ六本木ヒルズで美女と観てきた。
「『女性讃歌3部作』の完結編」という触れ込み(キャッチコピー)だが、果たしてそうか?
『トーク・トゥ・ハー』も『オールアバウト・マイ・マザー』も観たが、すでに内容は忘却のかなたにあるため、これら前2作が「女性讃歌」にあたるのかどうか判断がつかない。確かめるためにもう一度観る気にもならない。
なぜなら、今作を観てすっかりアルモドヴァル作品に幻滅したからである。
あらすじはすっ飛ばして、以下、感想。
娘ライムンダと母イレネのあいだの、失われていた愛情と交流の回復を描いた作品なんだろうけれども、両者をつなぐもの、つまりふたりのあいだにつむがれる「共感」の絆って、家父長男に翻弄されたヘテロ女の不幸、じゃなかろうか。「不幸」や「苦痛」でつながりあうのって、どうよ?
だってさ、結局ふたりがわかりあえたのって、「夫殺し」の犯罪者同士であるってところにあるんだもん。
それが「女性讃歌」なの?
このキャッチコピーがアルモドヴァル監督の意図を忠実にあらわしているかどうかは知るよしもないけれど、そうだとすれば監督はとんだ自己欺瞞野郎だし、配給会社の販促戦略だとしたらとんでもない誤読。
キャッチコピーはともかくとして、アルモドヴァル監督が家父長男をバカにしているのはわかるけれども、それと同時に、家父長男の犠牲者(にして共犯者)であるヘテロ女のことも軽蔑してるんじゃないかと思ってしまう。ラース・フォン・トリアー監督が女性主人公に課す「受難」とは、あきらかに質が異なる。
トリアー監督の課す「受難」は、それを描くことによって家父長制度の奇妙さ、不気味さ、理不尽さを浮き彫りにするけれども、アルモドヴァル監督の今作は、「母娘愛」を前面に出すことによって、家父長制のゆゆしき問題点を埋没させてしまう。というよりも、母娘間の絆を回復する契機として家父長制が不可欠なもの(いわゆる必要悪)であるかのように見えるのだ。
「家父長制の犠牲者」という共通点を持たなければ、この母娘は和解にはいたらなかったのでは?
(↓ネタバレ。知りたいかたは反転してください)
実際、イレネは夫たる家父長男の「浮気」に苦しめられ、ライムンダは父である家父長男に常習的に性的虐待を受け、結局「父の子」を産み育てた。ライムンダには実父からレイプを受けたという実体験があったからこそ、その娘パウラが義父(ライムンダの夫)から性虐待を受けたために刺殺したという告白を受けたライムンダは、娘を疑うことなく「直感的に」事実であると理解したのである。
母娘3代にわたる家父長制犠牲の連鎖を描いた映画が、どうして「女性讃歌」なわけ?
まるで、このような犠牲者の不幸を持たなければ、女同士は共感しあうことも心を通わせあうこともできない、と訴えているようにも思えるのだ。
「女性=家父長制犠牲者」とするならば、この映画は「家父長制犠牲者讃歌」ではないか。それって、家父長制そのものをダイレクトに称揚するよりも、ずっとタチが悪い。
でも、いいところもあったよ。ふたつ。
ひとつは、アグスティナ役のブランカ・ボルティージョタン可愛い! 萌え! ベリーショートがよくお似合いの枯れた味わいのおかた! めちゃストライクゾーン! 声の低さと顔立ちからMtFさんかと思ったけれど、そうではないらしい。そんな性別不詳なところがとてもセクシーである。
もうひとつは、中盤でライムンダが朗々と歌い上げた歌。ペネロペ・クルスの生声なのかlip syncかはわからんけど、これには理屈抜きで揺さぶられた。映像と音のベクトルがつくりだす感銘は、活字メディアからはけっして得られないし、ある種、原始的な感覚が刺激されるため、なぜ、それによって揺さぶられるのか説明がつかない。言葉(セリフ)ではけっして表現できないものだからこそ、その感銘も言語に還元できない。セリフで感動するなら、それはシナリオや小説の形でも充分可能なわけで。
言語表現から受ける感銘は、抽象化によるシンボライズの見事さに対する知的驚愕であり、非言語表現から受ける感銘は、具象化によるシンボライズの天晴れさに対する情緒的驚愕である。前者は大脳新皮質に訴えかけ、後者は大脳旧皮質に訴えかける。
具体的なものは、肉体に深く刺さる。
だからこそ、こういう作品には騙されないようくれぐれも用心しなければならない。歌の圧倒的な説得力に気持ちをかっさらわれた弾みから、作品全体を「感動的だ!」と大雑把に扱わないようにしなければならない。
公開初日の初回、TOHOシネマズ六本木ヒルズで美女と観てきた。
「『女性讃歌3部作』の完結編」という触れ込み(キャッチコピー)だが、果たしてそうか?
『トーク・トゥ・ハー』も『オールアバウト・マイ・マザー』も観たが、すでに内容は忘却のかなたにあるため、これら前2作が「女性讃歌」にあたるのかどうか判断がつかない。確かめるためにもう一度観る気にもならない。
なぜなら、今作を観てすっかりアルモドヴァル作品に幻滅したからである。
あらすじはすっ飛ばして、以下、感想。
娘ライムンダと母イレネのあいだの、失われていた愛情と交流の回復を描いた作品なんだろうけれども、両者をつなぐもの、つまりふたりのあいだにつむがれる「共感」の絆って、家父長男に翻弄されたヘテロ女の不幸、じゃなかろうか。「不幸」や「苦痛」でつながりあうのって、どうよ?
だってさ、結局ふたりがわかりあえたのって、「夫殺し」の犯罪者同士であるってところにあるんだもん。
それが「女性讃歌」なの?
このキャッチコピーがアルモドヴァル監督の意図を忠実にあらわしているかどうかは知るよしもないけれど、そうだとすれば監督はとんだ自己欺瞞野郎だし、配給会社の販促戦略だとしたらとんでもない誤読。
キャッチコピーはともかくとして、アルモドヴァル監督が家父長男をバカにしているのはわかるけれども、それと同時に、家父長男の犠牲者(にして共犯者)であるヘテロ女のことも軽蔑してるんじゃないかと思ってしまう。ラース・フォン・トリアー監督が女性主人公に課す「受難」とは、あきらかに質が異なる。
トリアー監督の課す「受難」は、それを描くことによって家父長制度の奇妙さ、不気味さ、理不尽さを浮き彫りにするけれども、アルモドヴァル監督の今作は、「母娘愛」を前面に出すことによって、家父長制のゆゆしき問題点を埋没させてしまう。というよりも、母娘間の絆を回復する契機として家父長制が不可欠なもの(いわゆる必要悪)であるかのように見えるのだ。
「家父長制の犠牲者」という共通点を持たなければ、この母娘は和解にはいたらなかったのでは?
(↓ネタバレ。知りたいかたは反転してください)
実際、イレネは夫たる家父長男の「浮気」に苦しめられ、ライムンダは父である家父長男に常習的に性的虐待を受け、結局「父の子」を産み育てた。ライムンダには実父からレイプを受けたという実体験があったからこそ、その娘パウラが義父(ライムンダの夫)から性虐待を受けたために刺殺したという告白を受けたライムンダは、娘を疑うことなく「直感的に」事実であると理解したのである。
母娘3代にわたる家父長制犠牲の連鎖を描いた映画が、どうして「女性讃歌」なわけ?
まるで、このような犠牲者の不幸を持たなければ、女同士は共感しあうことも心を通わせあうこともできない、と訴えているようにも思えるのだ。
「女性=家父長制犠牲者」とするならば、この映画は「家父長制犠牲者讃歌」ではないか。それって、家父長制そのものをダイレクトに称揚するよりも、ずっとタチが悪い。
でも、いいところもあったよ。ふたつ。
ひとつは、アグスティナ役のブランカ・ボルティージョタン可愛い! 萌え! ベリーショートがよくお似合いの枯れた味わいのおかた! めちゃストライクゾーン! 声の低さと顔立ちからMtFさんかと思ったけれど、そうではないらしい。そんな性別不詳なところがとてもセクシーである。
もうひとつは、中盤でライムンダが朗々と歌い上げた歌。ペネロペ・クルスの生声なのかlip syncかはわからんけど、これには理屈抜きで揺さぶられた。映像と音のベクトルがつくりだす感銘は、活字メディアからはけっして得られないし、ある種、原始的な感覚が刺激されるため、なぜ、それによって揺さぶられるのか説明がつかない。言葉(セリフ)ではけっして表現できないものだからこそ、その感銘も言語に還元できない。セリフで感動するなら、それはシナリオや小説の形でも充分可能なわけで。
言語表現から受ける感銘は、抽象化によるシンボライズの見事さに対する知的驚愕であり、非言語表現から受ける感銘は、具象化によるシンボライズの天晴れさに対する情緒的驚愕である。前者は大脳新皮質に訴えかけ、後者は大脳旧皮質に訴えかける。
具体的なものは、肉体に深く刺さる。
だからこそ、こういう作品には騙されないようくれぐれも用心しなければならない。歌の圧倒的な説得力に気持ちをかっさらわれた弾みから、作品全体を「感動的だ!」と大雑把に扱わないようにしなければならない。
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2007/07/02 |
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『あるスキャンダルの覚え書き』
あるスキャンダルの覚え書き
観てきた。15:00の回。新宿武蔵野館にて。
伊勢丹裏の松竹プレイガイドが、映画館ごと取り壊し改装中になっていたので驚いた。
武蔵野館方面に向かいつつ、TSUTAYA1Fにてチケット購入。
同行者とともにインド料理屋のランチバイキングを堪能してから来館。
満腹しちゃったので、「こりゃ上映中の居眠りマストだな」と思った。
自慢じゃないが、わたしは映画館で映画を鑑賞するとかなりの確率で居眠りする。
劇場のプロセミアムなつくりが苦手。約2時間、ときにはそれ以上の時間を、スクリーンに向けられた椅子のなかで強制的に同じ姿勢をとらされるのが苦痛なのである。
寝転がって、ときどき姿勢を変えながらなら、集中力が持続するが、身動きがとれない状態だと睡眠学習態勢に入りやすいのである。特に食後の鑑賞は。
しかし、そんな心配は杞憂におわった。眠りに入る隙を与えない映画であった。
主演のケイト・ブランシェットが好きだという理由でもある。目が離せない。
あらすじは、公式サイトのStoryを参照されたし。
ハイミス教師バーバラはレズビアンなのだが、レズビアンの致命的特徴(欠点とも言う)をギュッと集約したような人物だった。自分が好意を寄せている相手(シーバ)の言動を、すべて我田引水的に解釈し、自己都合の妄想に合わせて相手をコントロールしようとする。
しかも、シーバは決してバーバラの望むような形で好意を寄せているわけではなく、バーバラに弱みを握られているからある程度従順になっているだけなのに、バーバラはすっかりパワーを得た気になって、「わたしとともにいるほうが幸せなのだ」「あなたにはわたししかいないのだ」と脅迫まがいのアプローチをする。それはバーバラ自身の思いをシーバに投影しているにすぎない。
「あなたさえいれば友だちなんかいらない」
そんなふうに思い詰めてしまうレズビアンは、わたしの身の回りにもけっして少なくない。そうやって、ひとりの相手にすべての役割を求めて、ふたりきりで閉じこもってしまう密室関係は、うまくいっているあいだは楽しいかもしれないが、破綻をきたせば互いに孤立してしまう。ほかに自分の不安や悩みを相談できるひとがひとりもいない、という孤独な状況に陥る。相手と気持ちが通いあわなくなってから、それ以外の他者をすべて締め出していたことに気づいても、とき既に遅しである。
ひとの話に耳を傾けない独善的な人物だから孤立してしまうのか。自分の妄想にとって都合の悪い現実を見ないことにするために閉じこもってしまうのか。
そういえば、仕事をバリバリこなしているキャリアウーマンが、結婚後には専業主婦に“憧れて”、仕事を辞めて家庭に入ったあと、結局、社会からの隔絶に耐えられなくなって精神を病んでいくというケースが、身近にある。わたしの母を筆頭に。
なぜ、専業主婦に憧れるのか、憧れさせられるのか、謎である。なぜ、自ら進んで座敷牢に入ろうとするのか、謎である。働くこと、金を稼ぐことを無条件肯定するつもりもないが、社会と接点を持っておく手段のひとつとして、仕事を持っていることは有効であると思う。
なぜ、社会との接点を断ち切ろうとするのか。
もちろん、社会に適応できない、適応したくなくて、孤立状態にあったほうが生きやすいというケースもあるはずである。自分の適性を客観的に把握しているのであれば。
しかし、憧れは、必ずしも自分にふさわしい、自分にマッチしたものとは限らない。「なりたい」ことと「できる」ことは別物である。なのになぜ、自身の適性に見合わない夢を見させられるのか。
いまのわたしは断然、恋人(特定のパートナー)より友人関係が大切だ。色恋抜きの関係構築こそ重要である。
にしても、スキャンダルをマスコミに嗅ぎつけられて追い回されるシーバが、マスコミの前で吠える姿には鬼気迫るものがある。わたしはブランシェットのこういうところが好きだ。あの気迫に侠気を感じる。
フィリップ・グラスの焦燥感をあおる音楽もとても良かった。わたしが居眠りをしないで済んだのは、ひとえにこの音楽のおかげかもしれない。
観てきた。15:00の回。新宿武蔵野館にて。
伊勢丹裏の松竹プレイガイドが、映画館ごと取り壊し改装中になっていたので驚いた。
武蔵野館方面に向かいつつ、TSUTAYA1Fにてチケット購入。
同行者とともにインド料理屋のランチバイキングを堪能してから来館。
満腹しちゃったので、「こりゃ上映中の居眠りマストだな」と思った。
自慢じゃないが、わたしは映画館で映画を鑑賞するとかなりの確率で居眠りする。
劇場のプロセミアムなつくりが苦手。約2時間、ときにはそれ以上の時間を、スクリーンに向けられた椅子のなかで強制的に同じ姿勢をとらされるのが苦痛なのである。
寝転がって、ときどき姿勢を変えながらなら、集中力が持続するが、身動きがとれない状態だと睡眠学習態勢に入りやすいのである。特に食後の鑑賞は。
しかし、そんな心配は杞憂におわった。眠りに入る隙を与えない映画であった。
主演のケイト・ブランシェットが好きだという理由でもある。目が離せない。
あらすじは、公式サイトのStoryを参照されたし。
ハイミス教師バーバラはレズビアンなのだが、レズビアンの致命的特徴(欠点とも言う)をギュッと集約したような人物だった。自分が好意を寄せている相手(シーバ)の言動を、すべて我田引水的に解釈し、自己都合の妄想に合わせて相手をコントロールしようとする。
しかも、シーバは決してバーバラの望むような形で好意を寄せているわけではなく、バーバラに弱みを握られているからある程度従順になっているだけなのに、バーバラはすっかりパワーを得た気になって、「わたしとともにいるほうが幸せなのだ」「あなたにはわたししかいないのだ」と脅迫まがいのアプローチをする。それはバーバラ自身の思いをシーバに投影しているにすぎない。
「あなたさえいれば友だちなんかいらない」
そんなふうに思い詰めてしまうレズビアンは、わたしの身の回りにもけっして少なくない。そうやって、ひとりの相手にすべての役割を求めて、ふたりきりで閉じこもってしまう密室関係は、うまくいっているあいだは楽しいかもしれないが、破綻をきたせば互いに孤立してしまう。ほかに自分の不安や悩みを相談できるひとがひとりもいない、という孤独な状況に陥る。相手と気持ちが通いあわなくなってから、それ以外の他者をすべて締め出していたことに気づいても、とき既に遅しである。
ひとの話に耳を傾けない独善的な人物だから孤立してしまうのか。自分の妄想にとって都合の悪い現実を見ないことにするために閉じこもってしまうのか。
そういえば、仕事をバリバリこなしているキャリアウーマンが、結婚後には専業主婦に“憧れて”、仕事を辞めて家庭に入ったあと、結局、社会からの隔絶に耐えられなくなって精神を病んでいくというケースが、身近にある。わたしの母を筆頭に。
なぜ、専業主婦に憧れるのか、憧れさせられるのか、謎である。なぜ、自ら進んで座敷牢に入ろうとするのか、謎である。働くこと、金を稼ぐことを無条件肯定するつもりもないが、社会と接点を持っておく手段のひとつとして、仕事を持っていることは有効であると思う。
なぜ、社会との接点を断ち切ろうとするのか。
もちろん、社会に適応できない、適応したくなくて、孤立状態にあったほうが生きやすいというケースもあるはずである。自分の適性を客観的に把握しているのであれば。
しかし、憧れは、必ずしも自分にふさわしい、自分にマッチしたものとは限らない。「なりたい」ことと「できる」ことは別物である。なのになぜ、自身の適性に見合わない夢を見させられるのか。
いまのわたしは断然、恋人(特定のパートナー)より友人関係が大切だ。色恋抜きの関係構築こそ重要である。
にしても、スキャンダルをマスコミに嗅ぎつけられて追い回されるシーバが、マスコミの前で吠える姿には鬼気迫るものがある。わたしはブランシェットのこういうところが好きだ。あの気迫に侠気を感じる。
フィリップ・グラスの焦燥感をあおる音楽もとても良かった。わたしが居眠りをしないで済んだのは、ひとえにこの音楽のおかげかもしれない。
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2007/06/23 |
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そのうち観る
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2007/06/19 |
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今週観たDVD
↓観た順
『独立少年合唱団』
(2000)
*主役の伊藤敦史くんの縄文系ルックスが好き。間違いなく役者顔。大成が望まれる。準主役の藤間宇宙くんは、「天使のボーイソプラノの持ち主」という設定だがおそらく歌う場面はlip syncでしょう。若かりし日のピーターを彷彿とさせないこともないけれど、大物感は薄い気がする。
『THE 有頂天ホテル』
(2006)
*三谷幸喜のコメディパターンは嫌いじゃないけどいささか飽きた。いまや映画監督としては伊丹十三的スタンス(大物俳優をチョイ役でバンバン使う)やね。
『博士の愛した数式』
(2006)
*可もなく不可もなく、という感じ。悪くないけど、黒板の数式の筆跡と、博士役の寺尾聰の筆跡が違いすぎ。
『間宮兄弟』
(2006)
*間宮兄役の佐々木蔵之介はけっこうタイプ。あの兄弟の母親役がみーさま(もっとタイプ!!!)というのは納得のキャスティング。しかし、オタク系男子が恋をするときって、どうもコレクションの一環みたいな描かれかたになるんだけど、実際オタクなみなさんどうなのこれ? 『電車男』のほうが関係性の発展のしかたがリアルな気もするけど。相手を好きになって関わりあうプロセスにおいて、自分自身が変容していくんじゃないの? 間宮兄弟は二人も変容しないから発展もしないってこと?
『うなぎ』
(1997)
*狂った男は他傷に走り、狂った女は自傷に走るというステレオタイプを描いただけの、ありふれたつまんないお話。服部桂子(清水美砂)と堂島英次(田口トモロヲ)の内縁関係にリアリティがない。つか、こういう無理な設定をさもリアルであるかのように見せられると、「女ってほんとバカ」って“本気”で思われるんだろうな。本当にバカなのはこういう設定にまったく違和感を覚えないチンコな作家(今村昌平+吉村昭)なんだけどね。マチズモ作家の妄想は「バーカ」と笑ってばかりいられない。実害を伴うので要注意。
『ユージュアル・サスペクツ』
(1995)
*『X-MEN』
(2000)、『X-MEN2』
(2003)でおなじみブライアン・シンガータンの監督2作目。ケヴィン・スペイシーは『K-PAX 光の旅人』
(2001)での怪演っぷりが好ましかった。そのせいか、結末がわかっても「やっぱりね」って感じだった。もちろん充分楽しませていただきましたが。
『dinner rush』
(2001)
*嫌いじゃないけど、『ユージュアル・サスペクツ』の直後だっただけに、「またそのパターンなの?」と思っちゃった。あと、いくらダンカンが仕事以外では能無しのだらしないヤツって設定でも、慌ただしい厨房を抜け出して給仕の女とイチャつくのはなんか余計な気がするよ。一つの舞台で複数のことがらが起こる群像ものって、流れがたるくなりやすいのよね。
『The Virgin Suicides』
(1999)
*ソフィア・コッポラ初監督作品。原作の題名直訳はなんだかすごくセンスがない。原作では語り手である「僕ら」に比重を置いているが(作者が「男」だからか?)、映画では自殺した5人の少女にフォーカスしている。だからといってなぜ彼女たちが死んでいったのかはわからないのだけれども、映画の最初で自殺未遂したセシリア(ハンナ・ハル)が、白髪老年男性の担当医に「まだ人生の苦しみをしらないのに、なぜ君は死のうとしたのかわからない」と云われ、「先生は13歳の女の子じゃないからよ」と答えたのは秀逸。
『GIA』
(1997)
*観よう観ようと思いつつ10年経ってしまった。HBO制作のTVドラマ。実在の人物を題材にしているとはいえ、ドキュメンタリータッチの演出はなんか違うんじゃないの? 証言シーンと再現シーンに出てくる人物が同じってことは、俳優が「証言者の役」を演じているにすぎないわけで。まーそれもすべてひっくるめてフィクションとして観ればいいんだろうけど、それなら時代背景を忠実に描いた『善き人のためのソナタ』のほうがずっと上質なフィクションだわ。それとジア役アンジェリーナ・ジョリーの肌荒れすぎ。エイズ発症してから母親に「肌がすっかり荒れちゃって」なんて云われてたけど、映画のしょっぱなから荒れてましたから!
『白バラの祈り -ゾフィー・ショル、最期の日々-』
(2006)
*ゾフィーさまステキ!!! 『ドッグヴィル』
のグレースを彷彿とさせる潔さに惚れました。冷静さに裏打ちされた情熱。わたしもかくありたいものです。
***
DVD三昧なのは逃避ともいえるし創造的退行ともいえる。とりあえずGW明けまでのノルマは予定通りこなした。明日からまた頑張りまーす。
『独立少年合唱団』
*主役の伊藤敦史くんの縄文系ルックスが好き。間違いなく役者顔。大成が望まれる。準主役の藤間宇宙くんは、「天使のボーイソプラノの持ち主」という設定だがおそらく歌う場面はlip syncでしょう。若かりし日のピーターを彷彿とさせないこともないけれど、大物感は薄い気がする。
『THE 有頂天ホテル』
*三谷幸喜のコメディパターンは嫌いじゃないけどいささか飽きた。いまや映画監督としては伊丹十三的スタンス(大物俳優をチョイ役でバンバン使う)やね。
『博士の愛した数式』
*可もなく不可もなく、という感じ。悪くないけど、黒板の数式の筆跡と、博士役の寺尾聰の筆跡が違いすぎ。
『間宮兄弟』
*間宮兄役の佐々木蔵之介はけっこうタイプ。あの兄弟の母親役がみーさま(もっとタイプ!!!)というのは納得のキャスティング。しかし、オタク系男子が恋をするときって、どうもコレクションの一環みたいな描かれかたになるんだけど、実際オタクなみなさんどうなのこれ? 『電車男』のほうが関係性の発展のしかたがリアルな気もするけど。相手を好きになって関わりあうプロセスにおいて、自分自身が変容していくんじゃないの? 間宮兄弟は二人も変容しないから発展もしないってこと?
『うなぎ』
*狂った男は他傷に走り、狂った女は自傷に走るというステレオタイプを描いただけの、ありふれたつまんないお話。服部桂子(清水美砂)と堂島英次(田口トモロヲ)の内縁関係にリアリティがない。つか、こういう無理な設定をさもリアルであるかのように見せられると、「女ってほんとバカ」って“本気”で思われるんだろうな。本当にバカなのはこういう設定にまったく違和感を覚えないチンコな作家(今村昌平+吉村昭)なんだけどね。マチズモ作家の妄想は「バーカ」と笑ってばかりいられない。実害を伴うので要注意。
『ユージュアル・サスペクツ』
*『X-MEN』
『dinner rush』
*嫌いじゃないけど、『ユージュアル・サスペクツ』の直後だっただけに、「またそのパターンなの?」と思っちゃった。あと、いくらダンカンが仕事以外では能無しのだらしないヤツって設定でも、慌ただしい厨房を抜け出して給仕の女とイチャつくのはなんか余計な気がするよ。一つの舞台で複数のことがらが起こる群像ものって、流れがたるくなりやすいのよね。
『The Virgin Suicides』
*ソフィア・コッポラ初監督作品。原作の題名直訳はなんだかすごくセンスがない。原作では語り手である「僕ら」に比重を置いているが(作者が「男」だからか?)、映画では自殺した5人の少女にフォーカスしている。だからといってなぜ彼女たちが死んでいったのかはわからないのだけれども、映画の最初で自殺未遂したセシリア(ハンナ・ハル)が、白髪老年男性の担当医に「まだ人生の苦しみをしらないのに、なぜ君は死のうとしたのかわからない」と云われ、「先生は13歳の女の子じゃないからよ」と答えたのは秀逸。
『GIA』
*観よう観ようと思いつつ10年経ってしまった。HBO制作のTVドラマ。実在の人物を題材にしているとはいえ、ドキュメンタリータッチの演出はなんか違うんじゃないの? 証言シーンと再現シーンに出てくる人物が同じってことは、俳優が「証言者の役」を演じているにすぎないわけで。まーそれもすべてひっくるめてフィクションとして観ればいいんだろうけど、それなら時代背景を忠実に描いた『善き人のためのソナタ』のほうがずっと上質なフィクションだわ。それとジア役アンジェリーナ・ジョリーの肌荒れすぎ。エイズ発症してから母親に「肌がすっかり荒れちゃって」なんて云われてたけど、映画のしょっぱなから荒れてましたから!
『白バラの祈り -ゾフィー・ショル、最期の日々-』
*ゾフィーさまステキ!!! 『ドッグヴィル』
***
DVD三昧なのは逃避ともいえるし創造的退行ともいえる。とりあえずGW明けまでのノルマは予定通りこなした。明日からまた頑張りまーす。
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2007/05/06 |
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けっしてヒマなわけではないのですよ
『いつか読書する日』(2004)
ひさびさの日本映画。
田中裕子は気になる俳優のひとり。出演作すべてを追っかけてるわけではないので熱烈なファンとは言いがたい。このひともう50歳すぎてるんだけど、確かにシワとかたるみがあるんだけど、どうしても「少女」に見えてしまう。若いころは逆にオバさんっぽく見えたこともあった。年齢不詳。
若いんだか老けてるんだか、美人なのかそうでないのか、シーンによって見えかたがまちまちだという点が、ジュリエッタ・マシーナと共通している。ええ、そういうひと好きなんですよわたし。
あらすじは、上のリンクをクリックして読んでください。簡単に言うと、高校時代から惹かれ合っていた二人が、50歳になってようやくその気持ちを交わしあい、翌日にはその恋が終わる、というところ。
かいつまむと味も素っ気もない話だが、これが意外に良い作品だった。予備知識も期待もなしで観たのだけど。
田中裕子演じる大場美奈子が毎朝牛乳配達してることとか、美奈子の思い人である高梨槐多(岸部一徳)が市役所の児童課に務めてることとか、美奈子が親代わりに慕っている皆川敏子(渡辺美佐子)が小説家であることとか、坂や階段の多い長崎の町をロケ地に選んだこととか、全部が全部にきちんと必然的な意味があって、つながりあっている。
槐多の妻・容子(仁科亜希子)は重い病に伏している。自分の命はもう長く続かないと知っている。そして、槐多が美奈子に惹かれつづけていることも知っている。そこで、自分が死んだ後にはなんとか二人に一緒になってもらいたいと策を弄する。余計なお世話ヤメレと思ったが、結局二人は互いの思いを遂げあうんだな。
で、50のオッサンとオバハンが互いを求めあうわけだが、これが初々しくてたどたどしくてたいへんよかった。まるでチェリーボーイとヴァージンの初めての体験って感じ。
こういう、映画らしい映画って久しぶりに観た。原作の小説でもあるのかと思ったら、映画オリジナルの脚本だった。どおりでねぇ、という感じで嬉しくなる。
監督の緒方明は石井聰亙の助監督だったんだな。監督デビュー作『独立少年合唱団』(2000)
も観たいんだけど、DVDになってないのね。
ひさびさの日本映画。
田中裕子は気になる俳優のひとり。出演作すべてを追っかけてるわけではないので熱烈なファンとは言いがたい。このひともう50歳すぎてるんだけど、確かにシワとかたるみがあるんだけど、どうしても「少女」に見えてしまう。若いころは逆にオバさんっぽく見えたこともあった。年齢不詳。
若いんだか老けてるんだか、美人なのかそうでないのか、シーンによって見えかたがまちまちだという点が、ジュリエッタ・マシーナと共通している。ええ、そういうひと好きなんですよわたし。
あらすじは、上のリンクをクリックして読んでください。簡単に言うと、高校時代から惹かれ合っていた二人が、50歳になってようやくその気持ちを交わしあい、翌日にはその恋が終わる、というところ。
かいつまむと味も素っ気もない話だが、これが意外に良い作品だった。予備知識も期待もなしで観たのだけど。
田中裕子演じる大場美奈子が毎朝牛乳配達してることとか、美奈子の思い人である高梨槐多(岸部一徳)が市役所の児童課に務めてることとか、美奈子が親代わりに慕っている皆川敏子(渡辺美佐子)が小説家であることとか、坂や階段の多い長崎の町をロケ地に選んだこととか、全部が全部にきちんと必然的な意味があって、つながりあっている。
槐多の妻・容子(仁科亜希子)は重い病に伏している。自分の命はもう長く続かないと知っている。そして、槐多が美奈子に惹かれつづけていることも知っている。そこで、自分が死んだ後にはなんとか二人に一緒になってもらいたいと策を弄する。余計なお世話ヤメレと思ったが、結局二人は互いの思いを遂げあうんだな。
で、50のオッサンとオバハンが互いを求めあうわけだが、これが初々しくてたどたどしくてたいへんよかった。まるでチェリーボーイとヴァージンの初めての体験って感じ。
こういう、映画らしい映画って久しぶりに観た。原作の小説でもあるのかと思ったら、映画オリジナルの脚本だった。どおりでねぇ、という感じで嬉しくなる。
監督の緒方明は石井聰亙の助監督だったんだな。監督デビュー作『独立少年合唱団』(2000)
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2007/04/29 |
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AQFF開幕しました
ほんじつ初日。いいお天気でした。半袖シャツで出かけて正解でした。
客の入りを心配していたんですが、現・大阪府議で、今夏、国政に打って出る尾辻かな子さんをゲストにお迎えしたオープニング・プログラムは、ほぼ満席の盛況ぶり。司会を務めてくださったドラァグ・クィーンのマーガレットさんのトークも絶好調、上映作品『紅門 -べにもん-』の評判も最高でした。
第2、第3プログラムもほぼ満席状態。第4プログラムの『No reglet 悔いなき恋』は、前売開始からほどなくして完売になった話題の作品。今日は全プログラムとも活気がありました。こんなうららかな陽気の週末に、わざわざ薄暗い映画館にお集りいただいて感謝感激です。
心配なのは、平日昼間のプログラム。昼間といっても、14時とか15時からスタートするプログラムなので、お時間がおありのかたはぜひぜひお越しください。ゲストが登場する回もあります。AQFF公式サイトをチェックしてね。
意外と人気だったのが、休憩時間に上映した『Queer Duck』(このblogでも以前紹介しました)。かな〜りブラックなアニメーション・ムービーですが、客席からクスクスゲラゲラ笑いが漏れていました。
映画祭は20日まで。みなさまのお越しを心よりお待ちしております。
***
そして、ほんじつのささやかな癒し。

「ぶたまん」ならぬ「ぶたぱん」です。中身はぶたまんの具そのもの。うまうま。

ひさびさにヤドロク登場。腎臓ケア食で生きぬいてます。
せま〜いところに顔面をおしつけて寝るのが好き♪

寝違えそうなポーズですが、平気らしい。
さて、これから仮眠をとってお仕事お仕事。このままだと5月末まで休みなくフル稼働することになりそう。殺人的スケジュールが控えています。。。
客の入りを心配していたんですが、現・大阪府議で、今夏、国政に打って出る尾辻かな子さんをゲストにお迎えしたオープニング・プログラムは、ほぼ満席の盛況ぶり。司会を務めてくださったドラァグ・クィーンのマーガレットさんのトークも絶好調、上映作品『紅門 -べにもん-』の評判も最高でした。
第2、第3プログラムもほぼ満席状態。第4プログラムの『No reglet 悔いなき恋』は、前売開始からほどなくして完売になった話題の作品。今日は全プログラムとも活気がありました。こんなうららかな陽気の週末に、わざわざ薄暗い映画館にお集りいただいて感謝感激です。
心配なのは、平日昼間のプログラム。昼間といっても、14時とか15時からスタートするプログラムなので、お時間がおありのかたはぜひぜひお越しください。ゲストが登場する回もあります。AQFF公式サイトをチェックしてね。
意外と人気だったのが、休憩時間に上映した『Queer Duck』(このblogでも以前紹介しました)。かな〜りブラックなアニメーション・ムービーですが、客席からクスクスゲラゲラ笑いが漏れていました。
映画祭は20日まで。みなさまのお越しを心よりお待ちしております。
***
そして、ほんじつのささやかな癒し。

「ぶたまん」ならぬ「ぶたぱん」です。中身はぶたまんの具そのもの。うまうま。

ひさびさにヤドロク登場。腎臓ケア食で生きぬいてます。
せま〜いところに顔面をおしつけて寝るのが好き♪

寝違えそうなポーズですが、平気らしい。
さて、これから仮眠をとってお仕事お仕事。このままだと5月末まで休みなくフル稼働することになりそう。殺人的スケジュールが控えています。。。
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2007/04/14 |
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『百合祭』のこと

ずっと以前から観たくてしかたがなかった作品。2001年に製作されて以来、国内外で上映会が行われ、2004年には東京国際レズビアン&ゲイ映画祭でも上映されたが、わたしはこのころ別のことに忙しくて機会を失いつづけていた。国内外での上映会は現在も継続されている。だからこそわたしはこの作品を鑑賞するチャンスにめぐり会えた。ありがたやありがたや。
なんといっても吉行和子が好きだ。若いころのエキセントリックな役どころもいいが、いまのしっとりしつつも凛とした系のほうが断然イイ。吉行さんは1998年製作の『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』に出演して以来、浜野作品には欠かせない俳優となっている(尾崎翠を題材にするあたりも浜野さんのニクいところ)。そんなわけで、わたしのなかでは吉行熱と浜野熱が同時に高まっていった。
『百合祭』映画化の際にも、浜野さんは主役を吉行さんで撮りたいと持ちかけた。吉行さんは、ともすると「女優」生命の危機になるかもしれないこの依頼を、二つ返事でOKした。「私たちくらいの年になると、依頼されるのは『だれそれの母』『なになにの祖母』という名前のない役どころばかり。でも、この作品では『宮野理恵』というれっきとした個人名がある。きちんと名前のある役を演じられるのはとてもうれしい」と吉行さん。
監督の浜野佐知さんについては、旦々舎のプロフィールを参照されたし。
以前のエントリで、『ベルばら』が少女漫画に対する偏見(女子どもに歴史はわからない)を打ち破ったエピソードを記したが、これとまったく同じような偏見が、映画界にはいまなお生き続けている。
浜野さんはピンク映画の製作にたずさわりながら、「女性の性を女性の手で描きたい」と思いつづけてきた。特に高齢女性の性を描きたいと考えていたところへ、桃谷方子『百合祭』
これまでに『百合祭』は30カ国以上50都市以上で上映されているが、浜野さんいわく「評判が悪いのは日本だけ」。しかも男女の反応にものすごい温度差がある。女性客は共感的に観るが、男性客はいずれも上映後にはムスッとしているとのこと。しかし、海外ではお年寄りの男性客が感動の涙を流しながら浜野さんに抱きついてきたそうな。
日本の男女の反応の違いは、それぞれの性愛観の食い違いにあるようだ。出会いを求める高齢者はたくさんいる。女性は今後の人生のパートナーを求めるが、男性は高齢になってなお妻(要は身の回りの世話をしてくれる家政婦?)を求めている、と浜野さんは言う。この食い違いゆえに第一の人生を棒に振った女性たちには、もう二度と男のご都合主義な性愛観の犠牲になってほしくな〜い。
さて、ここで面白いエピソードをひとつ。とある自治体の公的老人養護施設長さんの話。その施設では、男女ともに入居者の雰囲気が暗く重かったが、あるとき女性入居者たちに口紅をプレゼントしてお化粧をほどこしたところ、本人たちも気分が華やいで生き生きとしはじめ、男性入居者たちもその影響で明るくなったという。さらにまた、お風呂を混浴にしたところ、それまで寝たきりだったとある男性入居者が、「なに、混浴? わしも行く〜〜〜!」と張り切って懸命にリハビリし、寝たきりから見事に回復したのだそうだ。性は計り知れないパワーをひとに与える。フロイトのリビドー概念もあながち嘘っぱちではないのですな。
性は、必ずしも生殖には結びつかない。非異性愛者のみならず、高齢者もそうだ。浜野さんは最後にこう言った。「生殖から自由だからこそ、自分が気持ちよく寄り添っていける豊かな関係づくりができるのではないでしょうか。女であること、高齢であること。これは二重の差別です。社会や行政が一方的に押しつける老人像に自分を合わせる必要はありません」。
***
さて、映画のネタバレは最小限に(わたしにしては珍しい配慮だ)。なぜならこの作品はいまだDVD化されておらず、マンパワーによる上映会でしか観られないからだ。こうやってじわりじわりと広がっていく映画は、そう簡単にネタバレしたくないわ。
原作どおりの筋書きは、映画全体の3分の2のところで終わっている。残りの3分の1は浜野監督のオリジナル・ストーリーだ。そしてラストに関しては賛否両論。原作者の桃谷さんも怒っていたらしい(パンフレットのインタビューでは「小説と映画は別物」とコメントしてたけど)。わたしはとてもステキな締めくくりだと思っている。単なる夢想ではなく、現実に即しているとさえ思う。
7月に吉祥寺で再度上映会がある。詳細はこちら(「百合祭」→「上映情報」をクリック)。
尾崎翠原作『こほろぎ嬢』も、5月にアンコール上映あり。観るぞ!
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2007/04/08 |
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うまやらしい
もとい。うらやましい。そしてくやしい。ジェラス。

『善き人のためのソナタ』
予告編がずっと気になっていて、昨日ひょんな都合がついたので観てきた。
観るまえにビール飲んでご飯食べたせいか、途中ちょぼちょぼと居眠りしてしまった(けっしてつまらなかったからではない)。ストーリーはちゃんと追えたのでだいじょうぶだけど、DVDが出たらもう一度観直したい作品。
ハゲあがりがチャーミングなヴィースラー大尉がかわいい。
家や組織での食事シーンで、なにを食べていたのか謎。おかゆかオートミールにケチャップ(しかもでっかい歯磨きチューブみたいなのをしぼって)かけただけのものみたいに見えた。不味そうだし、腹が満たされるとも思えない。
劇作家ドライマン宅の鏡台に飾ってある巨大なトンボの置物(同行者いわく「アールヌーボー調」)が気になってしかたがなかった。
などとピンポイントの印象をばらまきつつ、あらすじは割愛していきなりネタバレ。
ベルリンの壁が崩壊して「敵」を喪失したドライマンは、以後まったくシナリオが書けなくなってしまった(たぶん対抗的アイデンティティを喪失したんでしょう)。旧体制時代の大臣ヘンプフと再会し、自宅を盗聴されていた事実を知る。
資料を調べるうちに、その諜報担当者のコードネームがわかり、ヴィースラー本人をこっそりつきとめる。そこからドライマンの新たな創作活動がはじまる。
そして2年後に完成したのが「善き人のためのソナタ」という本。書店でドライマンの新刊を見つけたヴィースラーは即座に本を手に取り、冒頭の「HGW XX7に感謝をこめて」という謝辞を見つける。「これは私のための本だ」とヴィースラー。もうね、涙滂沱ですよ。
なにがうらやましいって、喪失と無力感の果てに、「だれのために書くか?」という具体的な対象をドライマンが発見したこと。そして、ヴィースラーがそれを喜んで受けとめたこと。ともに厳しく辛い時代を生きぬいた先で、互いの政治的立場を乗り越え、あたたかく希望に満ちたやり取りが行われたこと。
わたしは、誰に向けて、どんなボールを投げたいんだろうか。
誰が受けとめてくれるんだろうか。
うけとめーーーてーくーれるー、ひとはーいるだろーか〜〜〜。
ところで、ヴィースラーのコードネーム「HGW」はなにかの省略形なんだろうか。Ha(ハ)Ge(ゲ)のWiesler(ヴィースラー)かな? それともHard Gay Wiesler? Hard Gay World?
……とわたしがブツブツ言ってたら、一緒に映画を観たかたが、「きっとヴィースラーは、本当はあのデブ(ヘンプフ大臣)が好きだったんだよ」と真顔で無理矢理なクィアリーディングをおっぱじめようとしたので、慌てて止めました。ネタふりしたのはわたしですが。
ガブリエル・ヤルドの「善き人のためのソナタ」は好きだ。サントラほすぃ。

『善き人のためのソナタ』
予告編がずっと気になっていて、昨日ひょんな都合がついたので観てきた。
観るまえにビール飲んでご飯食べたせいか、途中ちょぼちょぼと居眠りしてしまった(けっしてつまらなかったからではない)。ストーリーはちゃんと追えたのでだいじょうぶだけど、DVDが出たらもう一度観直したい作品。
ハゲあがりがチャーミングなヴィースラー大尉がかわいい。
家や組織での食事シーンで、なにを食べていたのか謎。おかゆかオートミールにケチャップ(しかもでっかい歯磨きチューブみたいなのをしぼって)かけただけのものみたいに見えた。不味そうだし、腹が満たされるとも思えない。
劇作家ドライマン宅の鏡台に飾ってある巨大なトンボの置物(同行者いわく「アールヌーボー調」)が気になってしかたがなかった。
などとピンポイントの印象をばらまきつつ、あらすじは割愛していきなりネタバレ。
ベルリンの壁が崩壊して「敵」を喪失したドライマンは、以後まったくシナリオが書けなくなってしまった(たぶん対抗的アイデンティティを喪失したんでしょう)。旧体制時代の大臣ヘンプフと再会し、自宅を盗聴されていた事実を知る。
資料を調べるうちに、その諜報担当者のコードネームがわかり、ヴィースラー本人をこっそりつきとめる。そこからドライマンの新たな創作活動がはじまる。
そして2年後に完成したのが「善き人のためのソナタ」という本。書店でドライマンの新刊を見つけたヴィースラーは即座に本を手に取り、冒頭の「HGW XX7に感謝をこめて」という謝辞を見つける。「これは私のための本だ」とヴィースラー。もうね、涙滂沱ですよ。
なにがうらやましいって、喪失と無力感の果てに、「だれのために書くか?」という具体的な対象をドライマンが発見したこと。そして、ヴィースラーがそれを喜んで受けとめたこと。ともに厳しく辛い時代を生きぬいた先で、互いの政治的立場を乗り越え、あたたかく希望に満ちたやり取りが行われたこと。
わたしは、誰に向けて、どんなボールを投げたいんだろうか。
誰が受けとめてくれるんだろうか。
うけとめーーーてーくーれるー、ひとはーいるだろーか〜〜〜。
ところで、ヴィースラーのコードネーム「HGW」はなにかの省略形なんだろうか。Ha(ハ)Ge(ゲ)のWiesler(ヴィースラー)かな? それともHard Gay Wiesler? Hard Gay World?
……とわたしがブツブツ言ってたら、一緒に映画を観たかたが、「きっとヴィースラーは、本当はあのデブ(ヘンプフ大臣)が好きだったんだよ」と真顔で無理矢理なクィアリーディングをおっぱじめようとしたので、慌てて止めました。ネタふりしたのはわたしですが。
ガブリエル・ヤルドの「善き人のためのソナタ」は好きだ。サントラほすぃ。
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2007/03/05 |
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ドッグヴィルなひとびと
1月中旬、美女の私設ライブラリーからDVDとVHSをいくつかお借りした。そのなかのひとつである『ドッグヴィル』
をさっそく観た。観たあと、なんとも言葉が出てこない感じで、なにごとも書きつけることができずにいた。
ところで、2月2日(金)、堀江有里さんによる「教会の『聖』性を考える −レズビアンの視点からみる『キリスト教批判』の可能性」という講演を聴きにいった。彼女は昨年『「レズビアン」という生き方―キリスト教の異性愛主義を問う』
という書籍を上梓した。
キリスト教を宗教ではなく哲学思想として受けとめているわたしは、キリスト教ギョーカイの現場については門外漢である。がしかし、キリスト教ギョーカイといえば洋の東西を問わず、同性愛を断罪・排除する大元である。信仰の現場にたずさわっている堀江さんの講演を聴けば、キリスト教が同性愛を糾弾するもっともな根拠が分かるだろうかと思ったけれど、根拠はまったくといっていいほど「ない」ということが、逆にわかった。
堀江さんが牧師として所属している日本基督教団では、1998年に、教師(牧師)検定試験を受けた2人のゲイ男性に対して、「簡単に認めるべきではない」という発言がなされたり、同じ主旨の文書が配布されりした。教団側が同性愛者に対してこのような差別発言を行った根拠は、「聖書には(同性愛が)よくないと書いてある」というだけのこと。「オレたちのせいじゃないもんね。聖書にそう書いてあるんだもん」というわけだ。分かりやすくて面白みのない責任回避である。彼らの抱いているホモフォビアなんて表面的なものだ。
しかし、厄介なのは、その表面的でしかないホモフォビアすらも自己解体・自己分析せずにすむように、彼らは聖書を持ち出すのだということ。聖書をジャッジの基盤にしておけば、自分のアタマで考えなくて済む。聖書ロボットに徹して思考停止していれば楽なのだ。ありがちな思考の怠惰。つまらん。
聖書に準拠してさえいればよいというのなら、教団なんて必要ないんじゃない? と、わたしなんかは思ってしまうのだけれども。つまり、聖書の教えをおうむ返しにするだけならば、教団の存在意義はなくなるということだ。そういう自己矛盾にすら気づかないんだろうなぁ。聖書をベースにしつつ、人びとの生の現実に柔軟に対応していくことが、教団および牧師というマンパワーの意義なんじゃないかと思っていたけれど、それは理想論にすぎないってこと? 聖書に通暁しているからこそ聖書の限界を知悉しているはず、というのも、わたしの自己都合な想像だったのかな。いわゆるファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)たちは、「聖書がすべての答えを握っている」と信じて疑わないんだろうな。
で、話は唐突に『ドッグヴィル』
に戻る。
簡単なあらすじ。ロッキー山脈にあるとされる架空の過疎村「ドッグヴィル」に、一人の若い女性グレースが迷い込んできた。グレースにとって第一村人であったトムは、村人たちと相談して彼女をかくまうことにする。素性の分からないよそ者を受け入れる見返りに、グレースは村人たちの仕事や生活の手伝いをすることになった。彼女のおかげで村の生活は生き生きとしはじめたが、「豊かさ」を知った人びとは欲が出て、グレースに「もっと、もっと」と要求しはじめる。グレースが人びとに奉仕するのが当たり前になり、彼女はすべての村人たちの奴隷と化す。男たちはグレースを無償の娼婦扱いし、女たちは夫をとられたと言ってはグレースを責める。身も心もボロボロになったグレースのもとに、やがて……。
と、続きは映画をご覧ください。あるいは、ネタバレ情報はよそにもたくさんあるので、ほかをあたってください。
グレースを同性愛者に、村人たちをキリスト教原理主義者たちに例えるのはたやすい。けれどもあえてこの比喩のまま書き進めてみる。
村人たちが増長してグレースからよりいっそうの奉仕を奪い取るやり口に注目したい。最初の兆候は、子だくさん家族を抱えるチャック一家の長男ジェイソンからはじまった。
母親の留守中の子守りをグレースは仰せつかっていた。そのとき、ジェイソンはグレースに甘えたいばかりに、複雑に入り組んだワガママを主張する。「ボクは悪いことをしたんだからぶって! ぶってくれなきゃ尊敬できないよ。ぶってくれなかったらママに、『グレースにぶたれた』って言いつけてやる。ぶってくれたら黙ってるよ」というわけだ。日々の奉仕活動に疲れきっていたグレースは、ジェイソンとのやり取りを早く切り上げたかったので、彼の言う通りお尻を2〜3発たたいた。しかし、結局彼は母親に告げ口するのである。体罰を極端に毛嫌いする母親は、グレースの言い分には少しも耳を貸さず、失望と軽蔑と不信感をつのらせる。
続いてはジェイソンの父親チャックだった。彼はりんご園の作業を手伝ってくれるグレースに個人的な感情を抱きはじめていた。あるとき、村に警察官(CIA?)がやってきて、指名手配中の女性(誰もがそれをグレースだと信じている)について村人に聞き込みを行っていた。チャックは自分の家にいたグレースに迫り、「オレに敬意を払え。さもないと警察に突き出すぞ(抵抗して家から出て行けば警察に見つかるぞ)」と脅してグレースをレイプする。この出来事はいずれ「グレースがチャックを誘惑した」という形で村中に知れ渡り、グレースの株はますます落ちて行く。
ジェイソンとチャックのやり口には共通点がある。二人とも、「母」「警察」という外部の(自己には内在しない)権威を笠に着てグレースを脅したのだった。自分たちの言い分に正当性があるはずもなく、それでもグレースを支配したい、言いなりにさせたい、コントロールしたいがために「虎の威」を借りたのだ。正当性と論理を欠く脆弱な者ほど権威を悪用するという好例である。
そして、もうひとつの好例が、言うまでもなくファンダメンタリストたちである。内的規範、自分の軸を持たない彼らは、「聖書」という権威を持ち出し、「聖書」の力で同性愛者を攻撃する。
グレースは、人びとに受け入れてもらうために努力した。村人たちを信じた。彼女は村人たちを受け入れていたのだ。そして自分は村を害する存在ではないということを証明するために幾多の試練を受けた。彼女は日々試されていた。村人たちは彼女を執拗に試し続けた。自分たちが「試す」側に立っているということを疑いもしなかった。
けれども、本当に試されていたのは村人たちのほうではなかったのか。彼らこそがグレースに受け入れられたかったのではないのか。グレースはすでに彼らを受け入れていたのに、彼らの「受け入れられたい願望」はとどまるところを知らずエスカレートしていった。そして、「権威」の名の下に我々を受け入れよ、と暴力的に彼女に迫る。「なにも持たない丸裸の自分」のままではいられない。
「教団」は「同性愛者」を「受け入れる」側にいるのではなく、むしろ「同性愛者」に「受け入れられる」か否かが試され続けているのではないか。「寛容の精神」とは、上に立つ者から発せられるときにはひどく傲慢な響きを伴う。お前が「許すー受け入れる」側に立つとはとんでもない。お前こそが「許されるー受け入れられる」かどうかを問われているのだ。同性愛に不寛容な教団を受け入れようとする同性愛者たちの寛容さをこそ、教団側は「現代の福音」とみなすべきではないのか。
ドッグヴィルにも、形ばかりの、牧師不在の教会(集会所)がある。貧しいために民主主義に頼ることができなくなったこの村は、トムが形式的な議長となって村民による自治(その自治もほとんど機能していなかったが)が行われていた。この村にはキリスト教の匂いはほとんどしない。けれども、己のエゴを無理矢理正当化するために権威を持ち出すという、人類に普遍的に内在する悪癖からは逃れられなかった。
ドッグヴィルは陰惨な結末を迎える。たった一つのささやかな救いを残して。ファンダメンタリストたちの村は、果たしてどんな末路をたどることになるのだろうか。
もう一つ言えば、「ふつう」とか「みんな」とか「常識」って言葉も「権威」として用いられることが多い(使うひとたちは「権威」だなんて意識していないだろうけど、その無意識っぷりが問題だと思う)。わたしはこれらの言葉が会話相手の口から出てくると神経質になる。「ふつうってなに?」「みんなって誰のこと?」と問いたださずにはいられない。<いまーここ>にいるわたしたちではなく、不在かつ不特定の第三者の基準を持ち出してわたしやあなたの行動を監視しようとするのはなぜなのか。こういう言葉を無意識に用いるひとたちにとって、「ふつう」「みんな」「常識」は、キリスト教で言う「聖書」と同じ威力を持つものなのだ。
***
堀江さんは、同性愛に不寛容で性差別的な体制を温存している教団に留まり続けている。彼女の著書からは言語に尽くしきれない苦悶、しんどさ、恐怖、やりきれなさ、先の見えない不安、虚脱感などがひしひしと伝わってくる。
堀江さんが「留まりつづけている」ことが理解できない、と語ったひとが、わたしの身近に2人いた。いずれもアウトロー系レズビアンである。彼女たちは「自分には堀江さんのようなことはできない」と言う。
確かに、話の通じない徒労感を味わいつづけるくらいなら、自分がやるべきことを粛々とやり通すために、組織から離脱するというのもひとつの選択肢だ。そして現在のわたし自身もおそらく、彼女たち2人と立場を同じくしている。
けれども、「自分にはできない」からといって、わたしは堀江さんのスタンスが「理解できない」わけではない。彼女が「やるべきこと」は、「<いまーここ>に立ちつづけること」のうちにあるのだろう。
わたしはいまのところ、具体的な組織集団には直接対峙していないけれども、それは見ないふりをして避けつづけているだけではないかとも思う。山奥でライフラインに頼らず自給自足の生活をしている隠遁者ならいざ知らず、どんなに話の通じない連中から逃げつづけても、どうしたっていつの間にか組織や集団にからめとられてしまっているのだ。
19世紀末のイギリスでは、フェミニズムの運動によって女性の法的地位が実質的に改善された。由緒ある父権的なシステムを解体しはじめたのである。女性たちは高等教育の制度改正にもチャレンジしたが、オックスフォード大学学友会は女性が文学士の学位を取ることに圧倒的な反対票を投じ、ケンブリッジ大学では女性の入学に反対する暴動が起きた。200年前までは、「とんでもない」とされていた女性のさまざまな社会的権利が、いまでは「あたりまえのこと」になっている。
ほんの一滴の水はなんの役にも立たないかもしれないが、辛抱強く石の一点を打ち続ければ、いつしか穴を穿つ。堀江さんをはじめとする、性的多様者のキリスト教信者たちの辛抱強い働きかけが、いまのところ「とんでもない」とされていることを、いつの日か「あたりまえのこと」に変えていく力として継続されていくことを願ってやまない。
そして、わたし自身、活動の場は違えども、堀江さんたちと共通の根を持って、自分なりの働きかけを続けていくつもりだ。
ところで、2月2日(金)、堀江有里さんによる「教会の『聖』性を考える −レズビアンの視点からみる『キリスト教批判』の可能性」という講演を聴きにいった。彼女は昨年『「レズビアン」という生き方―キリスト教の異性愛主義を問う』
キリスト教を宗教ではなく哲学思想として受けとめているわたしは、キリスト教ギョーカイの現場については門外漢である。がしかし、キリスト教ギョーカイといえば洋の東西を問わず、同性愛を断罪・排除する大元である。信仰の現場にたずさわっている堀江さんの講演を聴けば、キリスト教が同性愛を糾弾するもっともな根拠が分かるだろうかと思ったけれど、根拠はまったくといっていいほど「ない」ということが、逆にわかった。
堀江さんが牧師として所属している日本基督教団では、1998年に、教師(牧師)検定試験を受けた2人のゲイ男性に対して、「簡単に認めるべきではない」という発言がなされたり、同じ主旨の文書が配布されりした。教団側が同性愛者に対してこのような差別発言を行った根拠は、「聖書には(同性愛が)よくないと書いてある」というだけのこと。「オレたちのせいじゃないもんね。聖書にそう書いてあるんだもん」というわけだ。分かりやすくて面白みのない責任回避である。彼らの抱いているホモフォビアなんて表面的なものだ。
しかし、厄介なのは、その表面的でしかないホモフォビアすらも自己解体・自己分析せずにすむように、彼らは聖書を持ち出すのだということ。聖書をジャッジの基盤にしておけば、自分のアタマで考えなくて済む。聖書ロボットに徹して思考停止していれば楽なのだ。ありがちな思考の怠惰。つまらん。
聖書に準拠してさえいればよいというのなら、教団なんて必要ないんじゃない? と、わたしなんかは思ってしまうのだけれども。つまり、聖書の教えをおうむ返しにするだけならば、教団の存在意義はなくなるということだ。そういう自己矛盾にすら気づかないんだろうなぁ。聖書をベースにしつつ、人びとの生の現実に柔軟に対応していくことが、教団および牧師というマンパワーの意義なんじゃないかと思っていたけれど、それは理想論にすぎないってこと? 聖書に通暁しているからこそ聖書の限界を知悉しているはず、というのも、わたしの自己都合な想像だったのかな。いわゆるファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)たちは、「聖書がすべての答えを握っている」と信じて疑わないんだろうな。
で、話は唐突に『ドッグヴィル』
簡単なあらすじ。ロッキー山脈にあるとされる架空の過疎村「ドッグヴィル」に、一人の若い女性グレースが迷い込んできた。グレースにとって第一村人であったトムは、村人たちと相談して彼女をかくまうことにする。素性の分からないよそ者を受け入れる見返りに、グレースは村人たちの仕事や生活の手伝いをすることになった。彼女のおかげで村の生活は生き生きとしはじめたが、「豊かさ」を知った人びとは欲が出て、グレースに「もっと、もっと」と要求しはじめる。グレースが人びとに奉仕するのが当たり前になり、彼女はすべての村人たちの奴隷と化す。男たちはグレースを無償の娼婦扱いし、女たちは夫をとられたと言ってはグレースを責める。身も心もボロボロになったグレースのもとに、やがて……。
と、続きは映画をご覧ください。あるいは、ネタバレ情報はよそにもたくさんあるので、ほかをあたってください。
グレースを同性愛者に、村人たちをキリスト教原理主義者たちに例えるのはたやすい。けれどもあえてこの比喩のまま書き進めてみる。
村人たちが増長してグレースからよりいっそうの奉仕を奪い取るやり口に注目したい。最初の兆候は、子だくさん家族を抱えるチャック一家の長男ジェイソンからはじまった。
母親の留守中の子守りをグレースは仰せつかっていた。そのとき、ジェイソンはグレースに甘えたいばかりに、複雑に入り組んだワガママを主張する。「ボクは悪いことをしたんだからぶって! ぶってくれなきゃ尊敬できないよ。ぶってくれなかったらママに、『グレースにぶたれた』って言いつけてやる。ぶってくれたら黙ってるよ」というわけだ。日々の奉仕活動に疲れきっていたグレースは、ジェイソンとのやり取りを早く切り上げたかったので、彼の言う通りお尻を2〜3発たたいた。しかし、結局彼は母親に告げ口するのである。体罰を極端に毛嫌いする母親は、グレースの言い分には少しも耳を貸さず、失望と軽蔑と不信感をつのらせる。
続いてはジェイソンの父親チャックだった。彼はりんご園の作業を手伝ってくれるグレースに個人的な感情を抱きはじめていた。あるとき、村に警察官(CIA?)がやってきて、指名手配中の女性(誰もがそれをグレースだと信じている)について村人に聞き込みを行っていた。チャックは自分の家にいたグレースに迫り、「オレに敬意を払え。さもないと警察に突き出すぞ(抵抗して家から出て行けば警察に見つかるぞ)」と脅してグレースをレイプする。この出来事はいずれ「グレースがチャックを誘惑した」という形で村中に知れ渡り、グレースの株はますます落ちて行く。
ジェイソンとチャックのやり口には共通点がある。二人とも、「母」「警察」という外部の(自己には内在しない)権威を笠に着てグレースを脅したのだった。自分たちの言い分に正当性があるはずもなく、それでもグレースを支配したい、言いなりにさせたい、コントロールしたいがために「虎の威」を借りたのだ。正当性と論理を欠く脆弱な者ほど権威を悪用するという好例である。
そして、もうひとつの好例が、言うまでもなくファンダメンタリストたちである。内的規範、自分の軸を持たない彼らは、「聖書」という権威を持ち出し、「聖書」の力で同性愛者を攻撃する。
グレースは、人びとに受け入れてもらうために努力した。村人たちを信じた。彼女は村人たちを受け入れていたのだ。そして自分は村を害する存在ではないということを証明するために幾多の試練を受けた。彼女は日々試されていた。村人たちは彼女を執拗に試し続けた。自分たちが「試す」側に立っているということを疑いもしなかった。
けれども、本当に試されていたのは村人たちのほうではなかったのか。彼らこそがグレースに受け入れられたかったのではないのか。グレースはすでに彼らを受け入れていたのに、彼らの「受け入れられたい願望」はとどまるところを知らずエスカレートしていった。そして、「権威」の名の下に我々を受け入れよ、と暴力的に彼女に迫る。「なにも持たない丸裸の自分」のままではいられない。
「教団」は「同性愛者」を「受け入れる」側にいるのではなく、むしろ「同性愛者」に「受け入れられる」か否かが試され続けているのではないか。「寛容の精神」とは、上に立つ者から発せられるときにはひどく傲慢な響きを伴う。お前が「許すー受け入れる」側に立つとはとんでもない。お前こそが「許されるー受け入れられる」かどうかを問われているのだ。同性愛に不寛容な教団を受け入れようとする同性愛者たちの寛容さをこそ、教団側は「現代の福音」とみなすべきではないのか。
ドッグヴィルにも、形ばかりの、牧師不在の教会(集会所)がある。貧しいために民主主義に頼ることができなくなったこの村は、トムが形式的な議長となって村民による自治(その自治もほとんど機能していなかったが)が行われていた。この村にはキリスト教の匂いはほとんどしない。けれども、己のエゴを無理矢理正当化するために権威を持ち出すという、人類に普遍的に内在する悪癖からは逃れられなかった。
ドッグヴィルは陰惨な結末を迎える。たった一つのささやかな救いを残して。ファンダメンタリストたちの村は、果たしてどんな末路をたどることになるのだろうか。
もう一つ言えば、「ふつう」とか「みんな」とか「常識」って言葉も「権威」として用いられることが多い(使うひとたちは「権威」だなんて意識していないだろうけど、その無意識っぷりが問題だと思う)。わたしはこれらの言葉が会話相手の口から出てくると神経質になる。「ふつうってなに?」「みんなって誰のこと?」と問いたださずにはいられない。<いまーここ>にいるわたしたちではなく、不在かつ不特定の第三者の基準を持ち出してわたしやあなたの行動を監視しようとするのはなぜなのか。こういう言葉を無意識に用いるひとたちにとって、「ふつう」「みんな」「常識」は、キリスト教で言う「聖書」と同じ威力を持つものなのだ。
***
堀江さんは、同性愛に不寛容で性差別的な体制を温存している教団に留まり続けている。彼女の著書からは言語に尽くしきれない苦悶、しんどさ、恐怖、やりきれなさ、先の見えない不安、虚脱感などがひしひしと伝わってくる。
「レズビアン」という名づけを引き受けること、カミングアウト(公言)しつづけること、目の前にある差別に“否”と言いつづけること、そしてキリスト教に留まることーーこの四つが重なったところに立ちつづけることは、案外、しんどいことだ。(中略)
それでも、わたしは、<いまーここ>に立ちつづけている。何度も、少なくとも、自分をもっとも苦しめている四つ目の場から遠ざかろうと思いつつ、それでも留まりつづけようとする。なぜなのだろう。わたしは、その理由をまだうまく言葉にすることができない。幾重にも重層的に、その理由は存在しているから。というのも、ひとつだ。しかし、言葉にして伝えようとしても、伝わらないーーそんな経験を積み重ねてきたことも、またひとつである。
『「レズビアン」という生き方―キリスト教の異性愛主義を問う』
堀江さんが「留まりつづけている」ことが理解できない、と語ったひとが、わたしの身近に2人いた。いずれもアウトロー系レズビアンである。彼女たちは「自分には堀江さんのようなことはできない」と言う。
確かに、話の通じない徒労感を味わいつづけるくらいなら、自分がやるべきことを粛々とやり通すために、組織から離脱するというのもひとつの選択肢だ。そして現在のわたし自身もおそらく、彼女たち2人と立場を同じくしている。
けれども、「自分にはできない」からといって、わたしは堀江さんのスタンスが「理解できない」わけではない。彼女が「やるべきこと」は、「<いまーここ>に立ちつづけること」のうちにあるのだろう。
わたしはいまのところ、具体的な組織集団には直接対峙していないけれども、それは見ないふりをして避けつづけているだけではないかとも思う。山奥でライフラインに頼らず自給自足の生活をしている隠遁者ならいざ知らず、どんなに話の通じない連中から逃げつづけても、どうしたっていつの間にか組織や集団にからめとられてしまっているのだ。
19世紀末のイギリスでは、フェミニズムの運動によって女性の法的地位が実質的に改善された。由緒ある父権的なシステムを解体しはじめたのである。女性たちは高等教育の制度改正にもチャレンジしたが、オックスフォード大学学友会は女性が文学士の学位を取ることに圧倒的な反対票を投じ、ケンブリッジ大学では女性の入学に反対する暴動が起きた。200年前までは、「とんでもない」とされていた女性のさまざまな社会的権利が、いまでは「あたりまえのこと」になっている。
十九世紀末から二十世紀初めの男性の多くにとって、女性は怒りと苦悶をかきたてる異世界の使いであるように思えたのに対して、同じ時期の女性にとって、男とは守ってもしかたがない秩序を憮然として守ろうとしているだけのもののように見えた。
(ギルバート=グーバー『No man’s land』)
ほんの一滴の水はなんの役にも立たないかもしれないが、辛抱強く石の一点を打ち続ければ、いつしか穴を穿つ。堀江さんをはじめとする、性的多様者のキリスト教信者たちの辛抱強い働きかけが、いまのところ「とんでもない」とされていることを、いつの日か「あたりまえのこと」に変えていく力として継続されていくことを願ってやまない。
そして、わたし自身、活動の場は違えども、堀江さんたちと共通の根を持って、自分なりの働きかけを続けていくつもりだ。
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2007/02/06 |
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「悪夢」の毒毒birthday
『ダーウィンの悪夢』を、美女と一緒に鑑賞。前評判や、すでにご覧になったかたがたの感想などを受けて、それなりに心の準備をしていたのだが、想像していたほどではなく(自分の想像力が怖い/汗)、映画館を出たあとにひどい厭世観に襲われることはなかった。
……にしても。
ナイルパーチの放流によって在来種が激減し、生態系が狂わされたビクトリア湖は、ヨーロッパ資本の新しい経済(グローバリゼーション)が持ち込まれたことによって、深刻な貧困問題を引き起こしたタンザニアそのものと対をなす。
タンザニアは政治的には1964年に独立を果たしたが、経済的にはいまだにヨーロッパ(主にイギリス)の保護(という名の支配)下にある。
「ある人に魚を一匹与えたら、その人はその日一日をなんとか食いつなぐことができる。しかし、魚の採りかたを教えれば、その人は一生食べていける」と言う人がいる。しかし、この映画で目の当たりにさせられるのは、人々に魚の採りかたを教えても、採った先から取り上げてしまう「グローバリゼーション」という名の搾取だ。
貧困にあえぐ子どもたち、若者たちは、「勉強したい」と切実に訴える。しかし、彼らの希望はいまのところ、いや、当分のあいだ叶えられることはない。食べるにも事欠き、ささいなことから暴力沙汰に巻き込まれる日々。彼らにできるのは、ナイルパーチの梱包材からつくった粗悪なドラッグを吸引し、せめて「悪夢」のような現実から逃避することだけだ。
バリを案内してくれたTikaも、勉強することを心から望んでいた。知識と技術を身につければ、誰かに騙されて搾取されることはないからだ。その「誰か」とは、「あなたたち先進国の人間です」と言われたような気がした。
***
さて、今日・明日と2日間にわたって「肝臓洗浄」にトライ。レポートはまた後日。
……にしても。
ナイルパーチの放流によって在来種が激減し、生態系が狂わされたビクトリア湖は、ヨーロッパ資本の新しい経済(グローバリゼーション)が持ち込まれたことによって、深刻な貧困問題を引き起こしたタンザニアそのものと対をなす。
タンザニアは政治的には1964年に独立を果たしたが、経済的にはいまだにヨーロッパ(主にイギリス)の保護(という名の支配)下にある。
「ある人に魚を一匹与えたら、その人はその日一日をなんとか食いつなぐことができる。しかし、魚の採りかたを教えれば、その人は一生食べていける」と言う人がいる。しかし、この映画で目の当たりにさせられるのは、人々に魚の採りかたを教えても、採った先から取り上げてしまう「グローバリゼーション」という名の搾取だ。
貧困にあえぐ子どもたち、若者たちは、「勉強したい」と切実に訴える。しかし、彼らの希望はいまのところ、いや、当分のあいだ叶えられることはない。食べるにも事欠き、ささいなことから暴力沙汰に巻き込まれる日々。彼らにできるのは、ナイルパーチの梱包材からつくった粗悪なドラッグを吸引し、せめて「悪夢」のような現実から逃避することだけだ。
バリを案内してくれたTikaも、勉強することを心から望んでいた。知識と技術を身につければ、誰かに騙されて搾取されることはないからだ。その「誰か」とは、「あなたたち先進国の人間です」と言われたような気がした。
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さて、今日・明日と2日間にわたって「肝臓洗浄」にトライ。レポートはまた後日。
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2007/01/13 |
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