さらに目が覚めた
暴力を振るう者の特徴1:責任逃れ
・何か問題が起こると自分には原因がないと主張してパートナーに責任をなすりつける。
・自分からもめごとを起こしておきながら平然と被害者のような振りをする。
・不幸だった子供時代の話をしたりして、相手に同情心を抱かせようとする。
暴力を振るう者の特徴2:いつも癒されていたい
・常にパートナーに見つめられていたい。
・「大丈夫?」と声をかけ、気遣っていてほしい。
・褒められるのは好きだが、批判されるのは大嫌い。
・何かあると、「あなたは悪くない」と言って、安心させてもらいたい。
暴力を振るう者の特徴3:捨てられるのが怖い小心者
・捨てられるのではないかという子供じみた不安のために、常に神経が張り詰めている。
・自分で勝手に不安感を引き起こしておきながら、すべてパートナーのせいにして当たり散らす。
暴力を振るう者の特徴4:パートナーをロボットのようにコントロールしたがる
・パートナーと健全な関係を保つための距離の取り方を知らない。
・パートナーを自分の所有物と勘違いしている。
・ひたすらパートナーを自分と同一化しようとして、分かち合うのではなく、独占する愛で支配し、一足す一が一になるような息苦しい関係を築きたがる。
暴力を振るう者の特徴5:悪質なナルシスト
・理想が高すぎて現実の自分とのギャップに失望し、無力感に襲われることが多い。
・誇大妄想ゆえに、善と悪を知り尽くしているような顔をして、説教じみた態度をとる。
暴力を振るう者の特徴6:ボーダーラインぎりぎり
・人間関係は常に言い争いの危険性をはらんでおり、不満や不足を感じるや相手を破壊してやりたいという欲求が生まれ、実際に破壊的な行為に出ることで内面の緊張を解こうとする。
・周囲の否定的な態度を異常に気に病み、パートナーからのささいな指摘や非難にも過敏に反応してすぐに気を悪くする。
・自己評価が極めて低いために、パートナーの愛をキープしようとして並外れた野望を抱いたりするが、パートナーに拒絶されそうになると、実際に逃げられるのを恐れて、先手を打って捨てられる前に捨てようとする。
・他人との接し方は極端で、情熱的に愛し、理想化する一方で、相手から少しでも距離を置かれたり、批判的な態度を見せられたとたんに著しく評価を下げて、しまいにはばっさりと関係を断ち切る。
・自分が依存している相手に関しては、強い両面感情を見せ、フラストレーションをうまくコントロールできなかったり、ちょっとした衝突で苛立つと、度を越した怒りを爆発させる。
暴力を振るう者の特徴7:自分の欲だけでパートナーを選ぶ
・自分の欲を物差しにしてパートナーを選ぶ。
・活力にあふれた生き生きとした相手を選び、吸血鬼のように相手の持つエネルギーを吸い取って、かわりにエネルギーを取り込んでいくための源とする。
・何ひとつうまくいかず、すべてが混乱しており、すべてが試練に感じられ、常に文句ばかり口にして、身近な人間に否定的なものの見方や不満を押し付ける。
暴力を振るう者の特徴8:不安に取り付かれている
・完璧主義で、何でも完璧にしたがるために、細かいことにこだわりすぎる。
・私生活では要求が強く、支配的で自己中心的。
・感情の爆発をいつも恐れている。
『殴られる女たち―ドメスティック・バイオレンスの実態』より、一部引用者により改変
どっかで見たことある書名だなと思ったけれど(いやそれは『バタードウーマン―虐待される妻たち』
DVへの取り組みに関しては、分析研究から法制化、加害者更生プログラム、被害当事者支援までシステマティックに進んでいるのはアメリカだ。一方の「人権」発祥国フランスでは、DVの問題にはどう取り組んでいるのか興味があった。
タイトルには『殴られる〜』とあるが、実際に著者が診察したDV事例を参照しつつ、肉体的暴力が起こる以前から周到に仕組まれた精神的暴力(言葉や態度)のありかた、その見抜きかたに焦点を当てているのが素晴らしい。
上記引用のようなタイプ分けは、まるで一頃流行った性格別心理特徴解説みたいだが、著者は上記のような特徴を「病理」として特別に囲い込むことはせず、「精神的疾患が原因で暴力的になる男性も中にはいるが、ほとんどの場合、暴力を振るうのは、自分の行動に対する責任能力を持っている『正常』な男たちだ」と述べて、上記の特徴はむしろ「正常」な男性にありがちな特徴であり、「こうした男性たちの精神状態がどのように機能しているか知るのは、治療を引き受ける立場にとって有益なだけでなく、なによりも、女性たちを危険な関係の罠から守る手助けになるはずだ」という。
察しのよいかたはとっくに気づいていると思うが、本書は婚姻関係にあるヘテロカップルだけを事例や分析の対象としている。だが、上記引用部分では、あえて性別表記を曖昧にした。
♀♀カップルでの肉体的暴力の発生は皆無ではないが、どちらかというと心理的暴力のほうが頻発しているとわたしは見ている。上記の暴力者の特徴についての性別表記を曖昧化すると、男性から女性への暴力だけでなく、非異性間カップルにも充分適用できる特徴となる。著者の「早いうちに、見過ごしてしまいがちな小さな虐待、心に襲いかかる暴力を『危険な暴力』として認識し、もっと真剣に、もっと深刻に受け止めなくてはいけない」というメッセージは、非異性間カップルにとっても他人事ではない切実なものになる。
ひさしぶりに
まるでこどもが修学旅行にでも行っていて留守のあいだに、「ふたりですごすのはひさしぶりだね〜」なんてなごんでいるような感じ。
落ち着いてふりかえってみれば、この2月から3月にかけて生活が一変した。1月までやっていた奴隷労働を突然辞め、収入のないままプー生活に突入。相方のなけなしの収入でほそぼそと暮らし、3月にはさらにゴリラが闖入。相方が貯めていた貯蓄がどんどん目減りしていく。
ひとりが稼いでふたりを喰わせるのはたいへんだ。気ばかり焦っていたが、相方が仕事をマネジメントしてくれた。ありがたや。
そして今後はわたしが稼ぎ頭となる。嵐の前の小休止。以前の奴隷労働のように暇疲れしている場合ではない。活動どまんなかである。
そして、活動とは雑用のことである。毎日雑用が山のように押し寄せる。片付けても片付けても終わらない。でも、楽しい。終業後に美味しくビールを飲むのが、いまのささやかな幸せである。
近々日本を離れる相方に仕送りする気は満々だが、無芸大食のゴリラを養うことには理不尽さを覚える。親でもなければ子でもないのに。
こどもがほしいと思ったことは一度もない。ないにもかかわらず、自分の意志とは無関係に、こどもを持たない者のもとには、こどものかわりに犬やら猫やらゴリラやらが舞い込んでくるのだそうだ。縁とはおそろしいものよ。
血のつながった子なら可愛いと思える、とは、ちっとも思わない。血のつながりよりも、縁のほうがずっと濃いし、避けようがない。話の通じる相手とだけ縁があるわけではない。話の通じない相手ともかかわっていく縁を、どうやら負わされているようだ。
この呪いを粛々と受け止めることが、徳を積むことになるのだろうか。
石井ゆかりははたして占い師なのかどうか
石井ゆかりはセクシュアルマイノリティを否定したり蔑視したりすることはない(と思う)が、だからといって誤解や偏見がないわけではない。それでもかのじょがいいなと思えるのは、自分の抱いていた偏見を偏見と認め、認識を修正する柔軟性を持っているから。
そして、実際のTさんがどんなかたかは知らないけれど、石井ゆかりの筆致からうかがえるTさんは、なにかに磨かれて磨かれて、とてもキラキラしているようにみえる。
合言葉をつくろうかねぇ
「きれいな手ですね」ってやつです。
1回目は取材先で。
2回目はごく親しいおともだちに。
3回目は定期的に通っている仕事先で。
偶然もここまで連続すると、しまいには笑えてきます。3回目には言われたとたん「またかよ!」と思ってつい「ぶはは!」と吹き出してしまいました(関係的にはもっとも笑ってはいけない間柄なんですけど)。
会話相手のリアクションを好意か悪意かでしか解釈できない偏狭さについて
話をするのに、「どうしてそんなに冷静でいられるんですか?」と聞かれたのははじめてだ。あまりにびっくりして二の句が継げなかった。感情的にやりあったら、それは会話ではなくケンカになってしまうし、第一こちらには感情的になる必然性はほとんどないし、感情的にならず冷静に応対することがとりあえず初対面のひとと話をするマナーである、と信じているんですがね。
こちらが冷静に対応するのがそんなに腹立たしいの? 冷静=批判ではないし、「ほぉ」とか「なるほど」というわたしのリアクションにケチつけられてもねぇ(「バカにしている」と思われた? 「お説ごもっとも!」なんてゴマスリするほうがずっとバカにしてると思うが)。というか、積極的にわかりやすく共感されたかったんだろうね。
そもそもこちらは「あなたの見解がわかる文献はありますか?」と聞いただけで、その場で議論するつもりなんかこれっぽっちもなかったのに(だいたい相手の見解を知りもしないで議論なんかできないだろうに)、「9年も前(実際には7年前なのだが)のことをいまさら蒸し返しても意味がないし、議論なんかしたくない!」と怒鳴る始末。
はいはい、こちらも怒鳴るひと相手に議論どころかまともに話ができるとは思っていませんし、「蒸し返しても意味がない」というのは「意味のある振り返りができない」と解釈しています。文献を教えていただいた時点で、わたしは「ありがとうございます。探して当たってみます」ってところで終了しているのに、どんどん話しつづけたのはそっちじゃないですか。しゃべりたくない口を無理矢理こじ開けたわけでもないのに。
それに、「9年(ほんとは7年)“も”前のこと」をいまだに冷静に振り返ることができていないってことは、まだまだそのひとにとって触れたくない生々しい傷なんだろうなということがうかがえた。せめてその傷を空気にさらして乾かそうとすることすらしてこなかったのかしら。傷口腐ってるのでは? 当事者性べったりのナルシシズムで蓋をして。
自分の傷口を腐らせようが悪化させようが当人の自由だが、そのひとは悩めるニューカマーたちのカウンセリングをやっている。ニューカマーは毎日毎年出てくるわけだから、そういうひとたち向けのケアは必用だが、だれが適任かはまた別の問題。自分の傷を放置しているひとが、いったいどう対処してるんだろう? まさか他人の傷口まで腐らせたり悪化させたりしてるんじゃないでしょうね?
悩めるひとびとの話を「寛容に」受け止めることで自分の傷を癒したつもりになるひとは、どこにでもいる。自分より「弱い」者のケアをすることで自己肯定したり、自分の存在意義を確認したり…要は「弱者」なしではいられない。相手が「弱い」からこそ「寛容に」なれる。そのひとは、悩みを抜け出して「強く」なった者に敵意を向ける。「強い」者には「寛容に」なれないらしい。
「自分ひとりだけが強くなれば、ほかのひとのことなんてどうでもいいと思っているのか? 『お前も強くなれ』じゃ済まないだろう!」というようなことも言われた。そんなこと一言も言ってないし思ってもいないのに。むしろ、あることについて不快感を抱いていたころから、それほど不快に感じなくなるようになったまでのプロセスを、分析的にたどり直したいと思っているからこそ、そのヒントが得られるかと思ってアプローチしてみたのだけれども。まぁ、アプローチの対象を見誤ったらしい。
そのひとのカウンセリングで救われるひともいるのだろう。でも、救われないひとだっている。7年前、当事者のあいだで議論がわき起こったことには、少なくともわたしにとっては意味があった。なかにはもちろんそのひとを攻撃しようと意図したひともいたのかもしれないが、そのひとの発言をきっかけに、あらためて「その問題」について考察しなおしてみようとしたひともたくさんいた。わたしはあらためての考察におおいに刺激されたクチだが、考察や分析では救われないひとたちだって当然いる。
そう思うからこそ、議論の場に一切出てこなかったそのひとは、いったいどう感じていたのだろうかとか、「強くなれ」(とは、議論の場に出たひとたちは言っていないのだけど)以外のカウンセリング・アプローチとはどのようなものかを知りたかったのだが(わたしはいまもむかしも、「いろんな考えかたや克服のしかたがあるし、できる限りのサポートはするけど、あなたにどんな方法が向いているのか、どうしたいのかは自分で決めてね」派である)、そもそものご本人がご自分の傷口をいまだにまったくケアできていないような状況だったので、そんな状態では敵も味方も区別がつかないでしょうし、どちらのスタンスでもない相手を敵だと思い込むのも無理はないですね(いまだに「手負いの熊」かよー)。傷口に触れてしまってさぞかし痛かったでしょうごめんなさいね、いつかカウンセリング行為を通じて癒されるといいですね、である。
でもね。
そのひとは「可哀想な弱者」が声を振り絞って怒りを訴えた、というようなつもりなのだろうが、こちらからすれば、いい年したオヤジが自分に同調しない若者を怒鳴りつけている強権発動の図、でしかない。弱者のふりして強権をふりかざすな、卑怯者め。
交換可能であることの救いとさいわい
ずっとずっと考えつづけていたことを、充分に不充分ではあるけれども、とりあえずの区切りをつけて整理してみることは重要だと思った。締め切りには苦しめられるが、その苦しみを通らないと次の展開がひらけてこない。わたしは基本ぐーたらなので、締め切りという外部装置による試練が必要だ。
自分ひとりで考えることには限界があるし、他人の思考に触れたいという欲望は、わたしの場合、たぶん性欲以上に旺盛だ。
もちろん、講義のためのレジュメをつくるあいだも、参考資料と首っ引きだったのだけれども、物理的には孤独で苦いヨロコビのともなう作業のうちになんとかたどった筋道は、大勢の学生さんの前で(ひとりでいたときと同じようなモードで)なぞりなおしてみると、なんというかつまらないものに感じられた(1コマ目の学生さんたちすみません)。
2コマ目の授業の履修生は1コマ目の3倍以上の人数なので、うつむいてレジュメに沿ってぶつぶつしゃべっているだけでは間がもたなそうだし、学生さんたちの「数のオーラ」に潰されてしまうのではないか、という直感的な不安もあった。
そんなわけで、2コマ目の授業ではかなりリキがはいってしまった。「数のオーラ」を醸し出す学生さんたちに対するプレゼンとしては、たぶん1コマ目よりも効力があったのではないかと思うが、そのぶん独断的というか、自分の価値観を一方的に押しつけてしまったような印象があったのではないかと反省モード。
でも、静かなる情熱のうちに、自分の発した声の調子の強さに自分が鼓舞される滑稽さを自覚しつつも、そのような情熱を発してこそようやく気づいたことがあった。
だれかを大切だと感じるとき、そのだれかが自分にとって「かけがえのない」(交換不可能な)存在であってほしいという<幻想のあなた>信仰を、わたしはかなり強く抱いていたのだなということ。そして、自分もまたそのだれかにとってかけがえのない存在でありたいという<幻想のわたし>信仰も。
<幻想のあなた>が、<現実のあなた>によって破られるとき、<幻想のわたし>は死ぬ。そして、<現実のわたし>だけがごろりと捨て置かれる。<現実のわたし>を捨て置いていたことに気づかされて、激しく痛む。悔やむ。
「愛」のあるセックスも「愛する」ことも、自傷行為の延期のシミュラークルだ。「愛する」ことが<幻想のあなた=幻想のわたし>信仰を強固にしていく営みならば、わたしはそのような「愛」には、もうコミットしない。かけがえのなさという幻想を求めることの虚しさに、ようやく気づいた。
とりかえがきくこと、交換可能性にこそ、救いがあるのかもしれない。<現実のあなた>にとって、わたしの代わりになるだれかがいることはさいわいだ。<現実のわたし>にとって、あなたの代わりになるなにかがあることはさいわいだ。
クロソウスキーのいう「生きた貨幣」の意味が、ほんのちょっとわかりかけた。
約1年前の手記を読んだら、もうすでにそんなようなことが書かれていた(<気づけよ自分)。強がりやハッタリやカッコつけ混じりで勢いにまかせて記したことがらが、いまはしっくりくる(<自己予言? まさかね/笑)。ハッタリもときには重要な役割をするもんだ(違)。
そして、講義でしゃべったことを忠実に逐語起こししたものにはあまたの誤謬があることにも気づかされた。とんでもない愚を犯していた。すみません(<Sさん)。
果てしない反省と改めての気づき。
99の後悔と自己嫌悪、そして1のヨロコビ。
薄曇りのなか、ほんの一点だけ、光が射しているような感じ。
今日はいい日だ。
全自動のどこがいいの?
それはそれとして。
いやあ、楽しいです二層式洗濯機。洗濯の楽しさがよみがえってきた。
わたしじつはあまり全自動洗濯機歴は長くなくて。
学生時代は二層式だったし、卒業して5年間は近所の銭湯のランドリー使ってた。
その後、当時の仲良しさんと同居することになって、一緒に買ったのが全自動。
同居生活を終えてわたしが引き取り、買って10年経っていよいよお釈迦に。
いや、使おうと思えばまだ使えたのだけど、転居先の室内に置くスペースがなくて。
転居先に置けるのは、バスルーム限定で、しかも縦横どちらかが50センチ以内。
それじゃあ二層式しか無理でしょう、という話で。
懐かしの二層式を迎えてみると、
安い(新品で2万円ちょっと)
早い(2回まわしでも40分ほど)
汚れ落ちがよい
と3拍子そろっている。
また、風呂場置きのため、残り湯が使えるのが、冬場は特にありがたい。
すすぎのときに入れるクエン酸効果のためか、脱水後の衣服がさらりとしている。
二層式のなにがいいって、「洗い」から「脱水」にうつるときに、洗濯物の汚れの落ち具合を確認できるのがいい。
脱水するときに、バランスよく詰めて、一発でスムーズに回転をはじめるモーター音を聞くのが好き。
思えば、全自動時代の洗濯はちっとも楽しくなかった。
ほったらかしにして、終了しているのに忘れて1日放置していたこともある(室外置き時代)。
戸籍上の男親のところは全自動乾燥機付洗濯機で、乾燥まで終わった洗濯物を取り出そうとしたら、静電気がパチパチいって指はかさつくし、洗濯物同士が静電気で絡まりあうし、はっきり言って不愉快だった。強制乾燥機は嫌いなんだよ。
当時の仲良しさんから引き継いだものは、これで冷蔵庫だけになった。
あのかたはまだしばらく元気に活躍してくれることでしょう。
あのかたがお釈迦になるころには、トランクひとつでどこへでも行ける身になっていたいものだ。
放置にもほどがある
ここに書かなくても、リアルでわたしをご存知のかたは、いまのわたしがどこでなにをしているかはだいたいおわかりだろうとは思う。忙しくて死にそう。特に脳が。
図書館と家とカフェで形成される魔のトライアングルをぐるぐると経巡っていた、1年前のひきこもり状態が嘘のよう。いまじゃ1日も休みがない。外に出かけない日がない。
書け書けと言われてうんうん唸っていたが、有形無形のくさぐさに背中を押され、書いてます。書かざるをえないものを。自分がほんとうに書きたいものはなんなのか、なんて優雅に悩んでいた日々がナツカシス。書きたいものではなく、書かざるをえないものを、背中を押されるようにして書いている。といっても、嫌なものを義務や義理で無理矢理書かされているのではなく、「これ、書いとかないとイカンでしょ!」ってものが盛りだくさんすぎ。
机の前でボーッとしていたって、執筆のカミサマは降りてきやしない。外に出ていけば、いたるところでカミサマのお導きに遭遇する。そか、自分は夢想系の文筆家ではなくて、アクティブ系の文筆家タイプなんだなと、この期におよんでようやく知る。「書く」ことも行動のうち。しかし、それだけが行動として単独に成立するわけではない。その他もろもろのアクションと連動している。
長らく「机上系」を自称していながら、ここ最近アクションを起こしているSさんの「必要なことには動く」という言葉に、静かになっとく。今後も基本的に「机上系」のスタンスは変わらないだろうとは思うけれども、自分に必要だから動くのであって、外部のはたらきかけによって動かされるのではない。わたしの背中を押す有形無形は、わたしのなかにあるのだ。
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引っ越せ引っ越せと言われつづけて1年半。当時は、まさか自分が住まうことになるとは思わなかったような、雑然としていて、うさん臭くて、活気のあるにぎやかな土地へ、今月末、越す。約10年ぶりの同居生活。とはいえ、「自分はひとりである」ということを、穏やかにすがすがしく引き受けたうえでの同居である。街も生活も、とても楽しみでワクワクしている。不安がなさすぎるのが問題か?
