「あなたがレズビアンになったのは虐待されたからですか?」
[…]私が自分の性的志向(ママ)を公然と発言して、質問をされてもいいと言うので、「あなたがレズビアンになったのは虐待されたからですか?」とよく尋ねられます。
私はいつも「いいえ」と答えます。話す相手によっては、表現力がとても豊かなある近親姦サバイバーから聞いた大好きな言葉も加えます。「性虐待のおかげでレズビアンになったのなら、性虐待にも、まあ、せめてひとつだけはいいことがあったね」または、「この国の男性から性虐待された女性の数について考えてください。性虐待があれば必ずレズビアンになるならば、レズビアンの人口は今よりはるかに多いはずでしょう」と言います。
性的志向は完全に異性愛、完全に同性愛という人もいますが、異性愛と同性愛の2つにきっぱり分かれるものではなく、大半はそ2つの間のどこかに位置しています。むしろ、私たちの生き方はもっと多様になるでしょう。
人が同性愛、異性愛になる決定的な理由はまだ解明されていません。子どもの頃に性虐待されたことが原因で、より多くの女性がレズビアンに、またはより多くの男性がゲイになるというどんな証拠もありません。実際に子どもの頃に性虐待されなかった同性愛志向の人たちは多いのです。しかし、私はレズビアンとゲイの男性が高い割合で、自分が虐待されたと公言していることに気づきました。これは次のことを暗示していると思います。
1)虐待者の大部分が男性であり、レズビアンは男性をかばう必要をあまり感じないという事実
2)虐待の課題を探るための温かい環境が、レズビアンやゲイの共同体にあること。
3)そして、ゲイの男性とレズビアンは自分の性的志向に目覚める過程で自分の性をしっかり見極めていること。
このような性についての高い自覚によって、性虐待された情報を発見する機会は多くなるのです。
(『もし大切な人が子どもの頃に性虐待にあっていたら―ともに眠りともに笑う』)
*引用者により適宜改行
イイ女に夢中♪
「どうしてサハラ砂漠へ行く気になったんですか」と、よく聞かれる。
いつも何かをすると、“なぜ?”がつきまとうのは、どうしてだろう? “なぜ、バイクに乗るんですか?”“なぜ、レースをやるんですか?”“なぜ、結婚しないのですか?”全てなぜ? なぜ? なぜ? である。
私は反対に皆に問いたい。
「なぜ、そんなに何でも理由づけしたがるんですか?」と。
(堀ひろ子『サハラとわたしとオートバイ』プロローグより)
堀ひろ子:
1949年ーー東京生まれ。日本初の女性ロードレーサー。
1975年ーー5月〜11月、世界一周ツーリング25カ国4万Km走破。
1976年ーー女人禁制だったロードレースに特例として参加を認められる。
1978年ーー女性だけのレース「パウダーパフ」主催。
1979年ーーモータースポーツファッションブティック「ひろこの」開店。
1980〜81年ーー4時間耐久ロードレース参加。
1983年ーー4月〜5月、今里峰子とともにサハラ縦断ツーリング完走。
1985年ーー4月30日、心不全のため逝去。享年36。
かのじょの存在によってオートバイの虜になったというひとがけっこう多い。たいては男性だけど。「ひろこの」は主に女性用のモーターファッション用品を扱っていたが(くちびるマークのロゴ)、男性の愛用者も多かったようだ。
わたしがかのじょを知ったのは最近のことで、まだ著書も一冊しか読んでいない。
けれども、上に引用したプロローグをはじめ、この本一冊読んだだけで、サハラ縦断の同行者として、経験豊富な男性ライダーではなく、経験値の少ない女性ライダーを選んだ理由は、かのじょに問わなくても、わたしにはわかる。わたしもきっと、かのじょと同じような選択をすると思う。
引きこもりモードでなければ読めない本
以下は、クロソウスキーの言葉ではなく、彼の著書を翻訳した兼子正勝の解説より。クロソウスキーよりははるかにわかりやすい。なぜならこれは「本家」の解釈、というか「本家」の屋台骨の解説だから。解説がわかりにくかったら話にならん。
振り返ってみれば、二〇世紀の諸々の言説は、愛や情欲を交換不可能なものとして語りつづけてきた。愛には相手を殺すサディズムか自分を殺すマゾヒズムしかないと言ったサルトルや、あらゆる愛はナルシスティックであると断言したジャック・ラカンをおそらく理論面での頂点として、他者を絶対の<外>として立てつづけるレヴィナス亜流の思想家たちや、他者を欠いたナルシスティックなシミュレーション世界を追認するメディア論者たち、さらには「ひとと触れあうことができない」と嘆きつづける『エヴァンゲリオン』の登場人物まで、いたるところに同じ不可能性の言説が、ときには通俗的に、ときには高尚に、しかしいつも同じように暗いまなざしで徘徊していると思うのは筆者だけだろうか。
そして、おそらくそれと相関的であるのだろうが、クロソウスキーが『生きた貨幣』を書いてから三〇年を経た現在、社会のほうは本書で「産業的奴隷」と呼ばれているものをいっそう高度に発達させ、スターやアイドルだけでなく、街のだれもが身体的魅力を売買し、同時に売買されるものとしての身体的魅力を追求するようになっているのではないか。産業資本主義と呼ばれるものが、手工業的な世界から身体を解放し、身体をすでにある種のシミュラークルにしたとしたら、現代の高度資本主義と呼ばれるものは、身体のシミュラークル化をいっそう過酷に押し進め、身体のすべてを貨幣に従属させようとしているのではないか。逆に言えば身体は、ブランドやステータスやモードによって記号化され、本来の意味での情欲から切り離されて、「死んだ貨幣」として過酷な流通過程に投げ出されているのではないか。そしてだれもがそのことを漠然と感じているがゆえに、「愛」や「癒し」を求める言説が、逆説的に蔓延しはじめているのではないか。身体はほとんど叫びのようにして、真のコミュニケーションを求めているのではないか。
それに対してクロソウスキーは言うだろう。あなたが求めているものは、あなたのなかにすでにある。あなたは「生きた貨幣」になればいい。つまり、貨幣に換算される身体を棄て、情欲そのものであるような、無形の欲堂が波立ち騒ぐ身体として、コミュニケーションの回路に入りさえすればいいと。そうすれば愛や情欲はたちどころに交換可能なものとなり、あなたは愛と情欲が自由に流通する世界に生きることができるだろうと。(p161)『生きた貨幣』
さて、問題。引きこもり状態は「死んだ貨幣」か? それとも「生きた貨幣」か?
答え:経済システムの外側に(自ら疎外して/疎外されて)いるので、貨幣ですらない。
千加子さんが報われる日はくるのか?
ひさびさの読書紹介。茶店で茶飲みながら小一時間ほどでさくっと読了。
千加子さんは長いこと主婦層のエンパワメントにたずさわってきて、でもそれが報われることはないとわかって鬱の日々に突入(かなり勝手で強引な解釈も混じっている)。そりゃそうだ、すでに強制異性愛社会のパラダイムを生きてしまっていて、しかも主婦になるということはそのパラダイムを率先して維持・強化していこうとする保守層だもの。千加子さんの声はかのじょたちにとって美しく力強い音楽だったかもしれないけれど、それはあくまでも「趣味」としてたしなむ程度の音楽であって、自分も千加子さんと並んで一緒に演奏しようだなんてめっそうもない……と、出しゃばらず、自分よりも他者を引き立てる「女らしい」身振りがしみついたかのじょたちが、変わることはないのだ。
そんなわけで、出ました。既存のパラダイムを生きちゃった女性たちのオルグが困難なのであれば、まだ生ききっていない若芽のうちに気づかせよう、という主旨の本書。中学生以上のかたがたに向けたシリーズなので読みやすい。
いーじゃん。だめなの?
どうしてだめなの? えー、そんな理由で。
なんでー。それって、なんか意味あんの?
よくわかんないよ。ありえねー。
だってさ、いったいそれって、なんなわけ?
……と思っているあなたに、この本を捧げます。
このまえがきがいちばん好き。
それにしても千加子さん、あなたはほんとうに(年齢問わず)ヘテロ女性が好きですね。そのことがびんびん(勝手に)伝わってきて、切なくなってきました。かのじょたちに向けるあなたのかぎりなく優しい眼差しを、かのじょたちはいつかきちんと見返してくれるんでしょうか。……って、見返されることなんか望んでいないのかもしれないけれど、もしもそうだとしたら、それって、さらに、もう、ああ。

