「生き延びること」への疑問ーー健康の政治性(2)
*健康の政治性(1)、ならびに前日のエントリとあわせてお読みくだされば幸甚。
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●ウルフの「狂気」
ヴァージニア・ウルフの生涯、とりわけ彼女の作家活動と「狂気」の密接な関係はよく知られている。ウルフ研究者でもある精神科医の神谷恵美子は、彼女を「非定型精神病」と見なし、夫のレナードはウルフを躁鬱病であるといい、その他、ウルフの狂気について触れている評伝には「精神病」「精神障害」「循環気質」「離人症」「心の病気」「精神分裂病(ママ)的要素あり」などの記述がみられる。いまならさしずめ「電波系」「メンヘラー」といったところか。中井久夫であれば彼女をシャーマンと呼んだことだろう。
ウルフの生涯には、それぞれ回復に数ヶ月を要した4〜5回の大きな病相期のほかに、1〜2ヶ月程度のものは頻繁に起こっていたらしい。父レズリーは自身が言うように“skinless”、つまり「皮膚がない」ほど過度に感じやすく、鬱の傾向が強く見られた。ウルフもまた自分の感受性が鋭敏で、外的刺激が「衝撃」ともいうべき強力さで、ときに恐怖と虚脱をともなって自身を襲うことを自覚していた。
この過敏なまでの感受力の強さが自分を芸術家たらしめているのだと肯定的にとらえながらも、書くことが彼女の状態をより病的な深淵へ追い込む危険性もウルフは重々自覚していた。ただし、それは自分が創作生活と日常生活に引き裂かれるためだと自己分析している。
●「狂気」への恐怖と誘惑
ウルフの恐怖の対象は、「病気」そのものだけでなく、むしろ「病気」になったことで強制される“安静”の生活だった。書くことも読むことも禁じられ、薄暗い部屋のなかでただ生命を維持するためだけに食べることを強いられる療養生活は苦痛以外のなにものでもなかった。そして、「強制」のなかでもっとも大きな苦痛は書くことの禁止だった。神経を使い、心身ともに憔悴しながら行う彼女の「書く」という仕事は、個人的な好みや選択である以前に、自分の宿命であると彼女は感じていた。書くことは彼女にとってほとんど本能の域であり、かつ生きることでもあることは、彼女の残した膨大な日記やエッセイ、手紙が示している。
思いのままにかける日記や手紙と違い、想像力を駆使し全神経を投入してなされる創作は、彼女に心身の疲労や頭痛、不眠を招いた。そうなると直ちに書くことを止めなければならない。自分で止めなければ夫や医師によって強制された。ウルフの作家としての困難はそこにあった。
「病気」は、彼女にとって恐怖だけでなく、それと矛盾する思い、つまりある種の魅力を抱かせた。想像へのインスピレーションを与えたからである。ときにウルフは、自分の書くものはほとんど狂気に負っているとさえ言った。
●破壊と創造という両義性
ウルフをとらえた狂気は、彼女を廃人にしかねなかった。幻想と現実の境は突如として失われ、たびたび襲われる自殺念慮、亡き母をはじめとするありえない存在の幻覚や幻聴などによって、彼女は自我崩壊の危機に常に迫られていた。狂気が抱える破壊と創造という両義性、パラドクスを、彼女の創作活動がまさに示していた。
憂鬱(gloom)や抑鬱(depression)の孤独の只中にあって、「不安と同時に興奮」を感じさせるのは、「宇宙の何ものかとともにある」という感覚である。真実の顕現や豊穣なイメージをもたらすのは、自分とともにある自分を超越する何らかの力、すなわち「宇宙の何ものか」である。それは理性の働きの弱まった精神の混迷状態のなかで自身に啓示を与えるある力だ。
ただし、狂気に完全に支配された状態では、創造行為は成立しない。興奮に引きずられていくと錯乱しかねない。霊感に導かれつつそれを書き記すという行為は、狂気と正気の分水嶺ともいうべき剃刀の刃のような山の峰を綱渡り状態で進むようなものである。孤独と恐怖と不安に耐えながら、狂気のもたらす興奮に酔いつつ覚醒するという慎重さと精神の強靭さを要する行為である。
カミュは『シーシュポスの神話』において、世界の不条理性、理不尽さのために「心に穴を穿ち」続けた結果、人は自殺という「精神の飛躍」を遂げると述べている。歴代の思想家・哲学者たちが慎重に論理を重ねた挙げ句、突如として神の概念を持ち出すのも、ある種の「精神の飛躍」であるという。彼自身はそのような「飛躍」に対して否定的であり、曖昧なもの、理不尽なものに耐え続けるしぶとさを求めているように感じられる。
●「秩序」という病
理性とは、秩序を維持する精神の働きである。したがって、理性の力を弱めること、理性を手放すことへの恐怖とは、秩序を失うことへの恐怖である。だが、はたして秩序とはなんだろうか。多くの人は、秩序の意義を再検討するまでもなく、その維持を無条件に是とすることだろう。秩序なくしては、この世は破壊と混乱による阿鼻叫喚の地獄と化し、「生き延びること」への困難と不安が増大すると想定することだろう。
しかし、その秩序とは、はたして誰にとって都合のいい秩序なのだろうか、と考えないわけにいかない。秩序の対極にあると考えられやすい戦争、戦乱は、実は秩序の維持のために発動される暴力的措置ではないのか。
ウルフの気質を「病気」「狂気」と名づけるのは容易い。だが、それを「狂気」と名づけ、分離・排除するものこそが「秩序」であり、秩序は自らの内部に巣食う狂気には思い至らない。秩序は、自らに都合のいい線引きという政治力を発揮し、「正気」と「狂気」を分離しようとする。けれども、自らを「正気」と僭称する傲慢さを解体しようとはしない。「正気」の政治性から距離をおいてみれば、「秩序」と「狂気」という二つの病があるにすぎない。そして「秩序という病」が囲い込んだ「狂気」を、栄養補給と安静という医療的強制措置によって精神の「均衡」を回復させるべく支配し、再び秩序の病理に取り込もうとする。
ウルフは、秩序を維持する「正常」な人々が「狂気」に対して行う支配と強制に異議を唱え、抵抗を示す。彼女のそのような思いは『ダロウェイ夫人』
に結実した。
●「狂気」のもたらすヴィジョン
1925年に発表された『ダロウェイ夫人』は、「狂気と自殺」を中心テーマに据えた作品である。表題のダロウェイ夫人とは、政治家リチャード・ダロウェイの妻クラリッサのことである。ストーリーの主軸はクラリッサだが、彼女の住まうロンドンの街に、ただの添景のように登場する狂人セプティマスと彼女は表裏一体をなしている。彼らは互いの分身であり、相互補完的な関係であることをウルフ自身が表明している。
セプティマスは、狂気にとらわれた状態のウルフそのもののような存在である。彼の幻覚や尋常でない振る舞いは、ただ闇雲に荒唐無稽で支離滅裂な「狂人の戯言」ではなく、狂気のなかに論理が、そして真実が見えてくる類いのものである。彼は狂気の門をくぐって“ヴィジョン(洞察、直観)”に至る。外界刺激の表層的な非論理の殻をはいでみると、無意味の背後に意味が浮かび上がってくる。このような構想は、ウルフが自身の狂気の記憶をたどって形成されたものと考えられる。
飛行機が空に描き出す文字を、彼は自分への合図だと了解する。彼は大空に果てしなく広がる美を看取する。世界が美を歓迎し、受け入れ、創造します、と言っているように思える。飛行機の文字を娘が読み上げると、その声が音波となって木々に達し、生命力を吹き込むように彼は感じ、人の声が木々の生長を促すのだと感嘆する。木の葉は彼の肉体と何百万の繊維でつながり、上に下にとその肉体を煽る。人は木を切ってはならない。なぜならそこに神が宿っているから。彼の目の前にはいままさに人間に変身しようとしている犬の姿がある。
自分が自然の一部であること、自己存在が自然との融合のなかにあるという感覚は普遍的なものだ。多くの場合は、これを漠然とした感覚によって経験するが、セプティマスは具体的に、しかもきわめて非現実的な形象を通じて、つまり幻覚によって感得する。彼が狂気を通じて得る自然の啓示は汎神論的であり、原初的で素朴な自然崇拝に近い。彼自身、一連の幻覚体験を「新しい宗教の誕生」と語っている。
死に至る病に直面したとき、また生死の境をさまよう経験などにより、人は宗教観ともいうべき一種の死生観を抱くことがある。ランディ・シルツ『そしてエイズは蔓延した』でも、AIDS発症の宣告を受けて絶望の淵に追い込まれてから、目に映る世の中の一瞬一瞬の様相がとても美しく鮮やかに感じられるようになった、という一患者のエピソードを紹介している。生命の危機的状況は一種の「狂気」を発生させ、“ヴィジョンの瞬間”をもたらすのだろう。
しかしながらセプティマスは、彼に精神の均衡を強要し、外界からの隔離と、本も友人もない静養を強制する医師たちの支配を拒否して自殺する。彼は、彼の発見した世界に遍在する美や、自然とのコミュニオンの感覚、生死の境界のない宇宙観、つまり彼自身の内的世界、自らの「狂気」を守るために死を選んだのだ。
●「生き延びること」への疑問
一方のクラリッサは狂気にもならないし自殺もしない。だが彼女にはセプティマスの自殺の意味が分かる。狂信的なクリスチャンである家庭教師ミス・キルマンが、「回心」という名の容赦ない笑顔のパターナリズムで、我が娘エリザベスを取り込もうとすることにクラリッサは苦い思いを抱く。それと同時に、彼女は精神の「均衡」を迫って他人の魂に干渉する精神科医にも好感が持てない。彼女には自殺したセプティマスのことが分かる。彼は「自分の宝」、日常の嘘やおしゃべりで曇らされてしまう「大事なもの」を守ったのだ。「彼女は何となく自分が彼にーー自殺した若い男にーー似ている気がした」。
だがやはりクラリッサは狂気にもならないし自殺もしない。彼女は妥協すること、真実から目をそらすすべを知っており、ある種の図太さを持っているからである。始終パーティを開いて、「つまらぬおしゃべりをし、いい加減なことを言い、知性の刃を鈍らせ、識別力を失う」こともできる。
クラリッサは「宿命」を注視し続けることはしない。「宿命」から目を背け、やりすごす知恵があり、それを居直る太々しさがある。それはつまり、「魂の不純さ」というべきものだ。だからこそセプティマスの自殺を知ったとき、彼女は彼に共感しつつ自分を恥じた。
クラリッサは自らの「不名誉」を自覚するがゆえに「不名誉」から救われている。そして彼女をこのように描くことによって、ウルフは狂気と自殺を擁護している。
狂気や自殺の擁護は、それらを否定することで成立している社会秩序への抵抗、批判である。秩序ある社会体制のなかでもっとも忌避されるべきものである狂気、自殺、犯罪は、絶対悪としては存在しない。しかし、秩序はこれらを「病」「悪」と位置づけ、精神の「均衡」を迫って人の心に押し入ることを、体制維持のための「正義」「善行」と僭称する。だが、ウルフのように「狂気」の側に身を置いた者からすれば、秩序に従って「狂気」を支配・管理しようとする者たちは「魂の強姦者」に等しく、“正常”の論理の理不尽さがありありと見える。
「健常者」や“正常”を自認するということは、「秩序という病」の罹患者であり、「秩序という牢獄」の囚人であると認めることと同義である。健康であること、正常であることがなぜ求められるのか。人々はなぜそれを求めるのか。この世の秩序を維持するために、「豊かさ」とか「命の大切さ」の内実を不問に付したままそれらを求めるよう刷り込まれ、「賃労働」と「消費行動」という果てしないループに自ら取り込まれることを望むからなのか。
「働かざるもの喰うべからず」という一種の美徳は、いつまで自明のものとして温存されるのか。「生きているうちが花、死んだらおしまい」という生存centerdな道徳観が、秩序の維持によってその正当性が裏打ちされているのだとしたら、「生き延びること」とは、「秩序という牢獄」にできる限り長く拘留されたいとする囚人願望、奴隷祈願にすぎないのではないのか。
ヴァージニア・ウルフの生涯、とりわけ彼女の作家活動と「狂気」の密接な関係はよく知られている。ウルフ研究者でもある精神科医の神谷恵美子は、彼女を「非定型精神病」と見なし、夫のレナードはウルフを躁鬱病であるといい、その他、ウルフの狂気について触れている評伝には「精神病」「精神障害」「循環気質」「離人症」「心の病気」「精神分裂病(ママ)的要素あり」などの記述がみられる。いまならさしずめ「電波系」「メンヘラー」といったところか。中井久夫であれば彼女をシャーマンと呼んだことだろう。
ウルフの生涯には、それぞれ回復に数ヶ月を要した4〜5回の大きな病相期のほかに、1〜2ヶ月程度のものは頻繁に起こっていたらしい。父レズリーは自身が言うように“skinless”、つまり「皮膚がない」ほど過度に感じやすく、鬱の傾向が強く見られた。ウルフもまた自分の感受性が鋭敏で、外的刺激が「衝撃」ともいうべき強力さで、ときに恐怖と虚脱をともなって自身を襲うことを自覚していた。
この過敏なまでの感受力の強さが自分を芸術家たらしめているのだと肯定的にとらえながらも、書くことが彼女の状態をより病的な深淵へ追い込む危険性もウルフは重々自覚していた。ただし、それは自分が創作生活と日常生活に引き裂かれるためだと自己分析している。
二つの世界、すなわち小説と人生の二つに生きようとする努力がストレスになるのだと思う。……全速力で書いているとき、私は散歩と、人との完全に自然な子どものような生活と、慣れたものだけがほしい。他人に対して用心深さと決断とで振る舞わねばならないことが、私を別の領域へ無理矢理追い込んでしまう。こうして衰弱(collapse)が生じる。
(1933年8月12日の日記)
●「狂気」への恐怖と誘惑
ウルフの恐怖の対象は、「病気」そのものだけでなく、むしろ「病気」になったことで強制される“安静”の生活だった。書くことも読むことも禁じられ、薄暗い部屋のなかでただ生命を維持するためだけに食べることを強いられる療養生活は苦痛以外のなにものでもなかった。そして、「強制」のなかでもっとも大きな苦痛は書くことの禁止だった。神経を使い、心身ともに憔悴しながら行う彼女の「書く」という仕事は、個人的な好みや選択である以前に、自分の宿命であると彼女は感じていた。書くことは彼女にとってほとんど本能の域であり、かつ生きることでもあることは、彼女の残した膨大な日記やエッセイ、手紙が示している。
(インフルエンザや風邪、体調不良によって)くしゃみが出たり、喉が塞がったりすることは何でもありません。書けないことがどんなにいやなことか。
(1934年3月14日、O・モレル宛の手紙)
思いのままにかける日記や手紙と違い、想像力を駆使し全神経を投入してなされる創作は、彼女に心身の疲労や頭痛、不眠を招いた。そうなると直ちに書くことを止めなければならない。自分で止めなければ夫や医師によって強制された。ウルフの作家としての困難はそこにあった。
「病気」は、彼女にとって恐怖だけでなく、それと矛盾する思い、つまりある種の魅力を抱かせた。想像へのインスピレーションを与えたからである。ときにウルフは、自分の書くものはほとんど狂気に負っているとさえ言った。
体験として、狂気は間違いなく恐ろしいもので、決して侮るべきではありません。けれども私は、その溶岩のなかに書くことの大部分をいまだに見出すのです。それは、正気のように少しずつではなく、すべてのものを形をなした究極のものとして、私のなかから噴出するのです。
(1930年6月22日、E・スミス宛)
●破壊と創造という両義性
ウルフをとらえた狂気は、彼女を廃人にしかねなかった。幻想と現実の境は突如として失われ、たびたび襲われる自殺念慮、亡き母をはじめとするありえない存在の幻覚や幻聴などによって、彼女は自我崩壊の危機に常に迫られていた。狂気が抱える破壊と創造という両義性、パラドクスを、彼女の創作活動がまさに示していた。
憂鬱(gloom)や抑鬱(depression)の孤独の只中にあって、「不安と同時に興奮」を感じさせるのは、「宇宙の何ものかとともにある」という感覚である。真実の顕現や豊穣なイメージをもたらすのは、自分とともにある自分を超越する何らかの力、すなわち「宇宙の何ものか」である。それは理性の働きの弱まった精神の混迷状態のなかで自身に啓示を与えるある力だ。
ただし、狂気に完全に支配された状態では、創造行為は成立しない。興奮に引きずられていくと錯乱しかねない。霊感に導かれつつそれを書き記すという行為は、狂気と正気の分水嶺ともいうべき剃刀の刃のような山の峰を綱渡り状態で進むようなものである。孤独と恐怖と不安に耐えながら、狂気のもたらす興奮に酔いつつ覚醒するという慎重さと精神の強靭さを要する行為である。
カミュは『シーシュポスの神話』において、世界の不条理性、理不尽さのために「心に穴を穿ち」続けた結果、人は自殺という「精神の飛躍」を遂げると述べている。歴代の思想家・哲学者たちが慎重に論理を重ねた挙げ句、突如として神の概念を持ち出すのも、ある種の「精神の飛躍」であるという。彼自身はそのような「飛躍」に対して否定的であり、曖昧なもの、理不尽なものに耐え続けるしぶとさを求めているように感じられる。
●「秩序」という病
理性とは、秩序を維持する精神の働きである。したがって、理性の力を弱めること、理性を手放すことへの恐怖とは、秩序を失うことへの恐怖である。だが、はたして秩序とはなんだろうか。多くの人は、秩序の意義を再検討するまでもなく、その維持を無条件に是とすることだろう。秩序なくしては、この世は破壊と混乱による阿鼻叫喚の地獄と化し、「生き延びること」への困難と不安が増大すると想定することだろう。
しかし、その秩序とは、はたして誰にとって都合のいい秩序なのだろうか、と考えないわけにいかない。秩序の対極にあると考えられやすい戦争、戦乱は、実は秩序の維持のために発動される暴力的措置ではないのか。
ウルフの気質を「病気」「狂気」と名づけるのは容易い。だが、それを「狂気」と名づけ、分離・排除するものこそが「秩序」であり、秩序は自らの内部に巣食う狂気には思い至らない。秩序は、自らに都合のいい線引きという政治力を発揮し、「正気」と「狂気」を分離しようとする。けれども、自らを「正気」と僭称する傲慢さを解体しようとはしない。「正気」の政治性から距離をおいてみれば、「秩序」と「狂気」という二つの病があるにすぎない。そして「秩序という病」が囲い込んだ「狂気」を、栄養補給と安静という医療的強制措置によって精神の「均衡」を回復させるべく支配し、再び秩序の病理に取り込もうとする。
ウルフは、秩序を維持する「正常」な人々が「狂気」に対して行う支配と強制に異議を唱え、抵抗を示す。彼女のそのような思いは『ダロウェイ夫人』
●「狂気」のもたらすヴィジョン
1925年に発表された『ダロウェイ夫人』は、「狂気と自殺」を中心テーマに据えた作品である。表題のダロウェイ夫人とは、政治家リチャード・ダロウェイの妻クラリッサのことである。ストーリーの主軸はクラリッサだが、彼女の住まうロンドンの街に、ただの添景のように登場する狂人セプティマスと彼女は表裏一体をなしている。彼らは互いの分身であり、相互補完的な関係であることをウルフ自身が表明している。
セプティマスは、狂気にとらわれた状態のウルフそのもののような存在である。彼の幻覚や尋常でない振る舞いは、ただ闇雲に荒唐無稽で支離滅裂な「狂人の戯言」ではなく、狂気のなかに論理が、そして真実が見えてくる類いのものである。彼は狂気の門をくぐって“ヴィジョン(洞察、直観)”に至る。外界刺激の表層的な非論理の殻をはいでみると、無意味の背後に意味が浮かび上がってくる。このような構想は、ウルフが自身の狂気の記憶をたどって形成されたものと考えられる。
飛行機が空に描き出す文字を、彼は自分への合図だと了解する。彼は大空に果てしなく広がる美を看取する。世界が美を歓迎し、受け入れ、創造します、と言っているように思える。飛行機の文字を娘が読み上げると、その声が音波となって木々に達し、生命力を吹き込むように彼は感じ、人の声が木々の生長を促すのだと感嘆する。木の葉は彼の肉体と何百万の繊維でつながり、上に下にとその肉体を煽る。人は木を切ってはならない。なぜならそこに神が宿っているから。彼の目の前にはいままさに人間に変身しようとしている犬の姿がある。
自分が自然の一部であること、自己存在が自然との融合のなかにあるという感覚は普遍的なものだ。多くの場合は、これを漠然とした感覚によって経験するが、セプティマスは具体的に、しかもきわめて非現実的な形象を通じて、つまり幻覚によって感得する。彼が狂気を通じて得る自然の啓示は汎神論的であり、原初的で素朴な自然崇拝に近い。彼自身、一連の幻覚体験を「新しい宗教の誕生」と語っている。
死に至る病に直面したとき、また生死の境をさまよう経験などにより、人は宗教観ともいうべき一種の死生観を抱くことがある。ランディ・シルツ『そしてエイズは蔓延した』でも、AIDS発症の宣告を受けて絶望の淵に追い込まれてから、目に映る世の中の一瞬一瞬の様相がとても美しく鮮やかに感じられるようになった、という一患者のエピソードを紹介している。生命の危機的状況は一種の「狂気」を発生させ、“ヴィジョンの瞬間”をもたらすのだろう。
しかしながらセプティマスは、彼に精神の均衡を強要し、外界からの隔離と、本も友人もない静養を強制する医師たちの支配を拒否して自殺する。彼は、彼の発見した世界に遍在する美や、自然とのコミュニオンの感覚、生死の境界のない宇宙観、つまり彼自身の内的世界、自らの「狂気」を守るために死を選んだのだ。
●「生き延びること」への疑問
一方のクラリッサは狂気にもならないし自殺もしない。だが彼女にはセプティマスの自殺の意味が分かる。狂信的なクリスチャンである家庭教師ミス・キルマンが、「回心」という名の容赦ない笑顔のパターナリズムで、我が娘エリザベスを取り込もうとすることにクラリッサは苦い思いを抱く。それと同時に、彼女は精神の「均衡」を迫って他人の魂に干渉する精神科医にも好感が持てない。彼女には自殺したセプティマスのことが分かる。彼は「自分の宝」、日常の嘘やおしゃべりで曇らされてしまう「大事なもの」を守ったのだ。「彼女は何となく自分が彼にーー自殺した若い男にーー似ている気がした」。
だがやはりクラリッサは狂気にもならないし自殺もしない。彼女は妥協すること、真実から目をそらすすべを知っており、ある種の図太さを持っているからである。始終パーティを開いて、「つまらぬおしゃべりをし、いい加減なことを言い、知性の刃を鈍らせ、識別力を失う」こともできる。
クラリッサは「宿命」を注視し続けることはしない。「宿命」から目を背け、やりすごす知恵があり、それを居直る太々しさがある。それはつまり、「魂の不純さ」というべきものだ。だからこそセプティマスの自殺を知ったとき、彼女は彼に共感しつつ自分を恥じた。
どうやらそれはわたしの災いーーわたしの不名誉。こちらで男が、あちらで女が、この深い闇のなかに沈み、消えていくのを見ながら、このわたしはイヴニングドレスを着てここで立っていなくてはならない。それはわたしへの罰だ。
(『ダロウェイ夫人』)
クラリッサは自らの「不名誉」を自覚するがゆえに「不名誉」から救われている。そして彼女をこのように描くことによって、ウルフは狂気と自殺を擁護している。
生と死を、正気と狂気を書きたい。社会制度を批判したい。
(1923年6月19日の日記)
狂気や自殺の擁護は、それらを否定することで成立している社会秩序への抵抗、批判である。秩序ある社会体制のなかでもっとも忌避されるべきものである狂気、自殺、犯罪は、絶対悪としては存在しない。しかし、秩序はこれらを「病」「悪」と位置づけ、精神の「均衡」を迫って人の心に押し入ることを、体制維持のための「正義」「善行」と僭称する。だが、ウルフのように「狂気」の側に身を置いた者からすれば、秩序に従って「狂気」を支配・管理しようとする者たちは「魂の強姦者」に等しく、“正常”の論理の理不尽さがありありと見える。
「健常者」や“正常”を自認するということは、「秩序という病」の罹患者であり、「秩序という牢獄」の囚人であると認めることと同義である。健康であること、正常であることがなぜ求められるのか。人々はなぜそれを求めるのか。この世の秩序を維持するために、「豊かさ」とか「命の大切さ」の内実を不問に付したままそれらを求めるよう刷り込まれ、「賃労働」と「消費行動」という果てしないループに自ら取り込まれることを望むからなのか。
「働かざるもの喰うべからず」という一種の美徳は、いつまで自明のものとして温存されるのか。「生きているうちが花、死んだらおしまい」という生存centerdな道徳観が、秩序の維持によってその正当性が裏打ちされているのだとしたら、「生き延びること」とは、「秩序という牢獄」にできる限り長く拘留されたいとする囚人願望、奴隷祈願にすぎないのではないのか。
「健康の政治性」(1)
●前口上という名の言い訳オンパレード
仰々しいタイトルですよね。ネーミングセンスが乏しいうえに、このようなテーマがわたし一人の手に余ることは重々承知しています。わたし一人では手に負えないからこそ、いまの段階で考えていることや分かったことやまだ分からないことなどを開示して、思慮やリサーチに欠けている部分を認識したり、方向性を探っていく手がかりをつかんでいこうと思っています。
最初にお断りしておきますが、わたしは医療分野の専門家でも、現場に詳しい医療ジャーナリストでもありません。情報ソースはネットや図書資料、身近な人たちとの会話のみです。そんな程度の情報収集力で何を語ろうってんだ、という自分ツッコミはこれまで何百辺もしてきましたし、今後もずっとしていくと思います。わたしの矜持は、「素人だからこそ専門家に任せっぱなしにせず自分で考えること」のみです。そしてこの矜持こそが、このテーマの重要なポイントになるだろうと確信しています。それがどの程度納得のいくように言語化できるかが自分の勝負どころと思っています。
本日アップした第1回の内容がメインテーマとどう関係するんだ? と突っ込まれるかもしれませんが、どうか長い目で見てください。もしかするとメインタイトルはのちのち変えるかもしれません。また、「てにをは」などの間違いや誤字脱字等は見つけ次第修正していきますが、テキストの大意を後になって変えることはしないつもりです。そのときどきの自分がどう考えていたか、そしてそれがどのように変化していくかというプロセスを重視したいので。
このシリーズがどのくらい続くかは、いまの段階では予想がつきません(計画性がなくてすみません)。また、予告にも書いた通り、できる限り週1ペースを守っていきたいと思いますが、もしかしたらあっけなく挫折するかもしれません。そのときは「負け犬papyrus」とどうぞ笑ってやってください。
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●生物学的快適さと文化的快適さの違い
ここ1年ほど、新宿にあるaktaというコミュニティ・センターへ出向く機会が増えました。aktaはHIVをはじめとする性感染症の情報センターであり、新宿2丁目に集う人々の「寄り合い所」みたいなところです。さまざまなセクシュアリティの人たちが出入りしていますが、利用者の中心はゲイ男性です。
aktaを訪れるひとびとはみなラフでカジュアルな服装をしています。夏場は男性陣もTシャツやタンクトップ、短パン、素足にビーチサンダルという軽装が多く見られます。夏の暑い日には当然クーラーを作動させます。わたしがここに来るのは女性メインのミーティングに参加するときですが、彼女たちは口々に「寒いね」と言い、持参した上着をはおるなどして対応していました。
それはそれで仕方がありません。生物学的性差からいえば女性より男性のほうが平均して筋肉量が多く、そのぶん熱エネルギーをたくさん放出しているので、男性は暑がりです(男女の平均値に基づいた性差より同性間の個人差のほうが大きいといえますが、その話はいずれまた)。ですから、同じような軽装をしていても、筋肉という脱げない着ぐるみを着ている以上、彼らの快適さとわたしたちの快適さに折り合いをつけるには、多少温度設定を高くしてもらい、それでも寒いと感じるならば上着で調整すればいいのです。
しかし、これが会社のオフィスだったらどうだろう、と、ふと考えます。わたしはオフィス勤務者ではありませんが、街ゆくサラリーマンたちの多くは、炎天下でもスーツの上着を着込んでネクタイを締めています。社内では上着を脱いでワイシャツの袖をまくるのが限界でしょう。半袖・短パンでもなお男性が暑がってクーラーの設定温度を低くしたがることはaktaの例を引くまでもなく明らかです。ましてや、長袖・長ズボンを着込んだ彼らのオフィスの温度設定は推して知るべしです。
わたしが不思議に思うのは、暑がりなのにたくさん着込んで暑い暑いと嘆く男性や、寒がりなのに露出度の高い服装をして冷え性に悩む女性たちだけではありません。彼らの服装文化を下支えしている性規範そのものに対してです。男らしさや女らしさは生物学的性差によって決定づけられている、という考えかたを本質主義といいますが、男女の本質であるはずの生物学的性差に忠実に従うのであれば、筋肉量が多くて暑さに弱い男性は女性よりも薄着をしてしかるべきではないでしょうか。なのに、現実はまったく正反対であり、生物学的性差との整合性がとれていません。
ごくステレオタイプなフォーマル・ウェアについて考えてみましょう。男性の場合は背広、ワイシャツ、ネクタイ、スラックスです。女性の場合は制服(なぜか女性勤務者に対してのみ制服を規定するケースがあっても、男性勤務者に対してのみ制服を規定するケースがないのは不思議です)を想定すると、ブラウス、ベスト、膝丈スカートです。冷えに弱いはずの女性に対して、なぜ体表面を覆う面積が少ないベストと膝丈スカートを制服として規定するのでしょうか。生物学的性差に基づくのであれば、男性の装いよりももっと保温性・防寒性に優れたものを採択すべきではないでしょうか。
男性のほうが圧倒的に暑がりなのですから、思い切って男女のフォーマルスタイルをそっくり入れ替えたほうがよほど機能的ではないでしょうか。しかし、このアイディアが「ナンセンス」ととられるのは当然です。女子の制服を着たがる男性社員は、残念ながら変態呼ばわりされるのがオチでしょうし、女子の制服を着た男性社員の姿を目の当たりにしても平然としていられる女性社員も、残念ながらあまりいないことでしょう。
結局、男女の服装文化は生物学的性差に見合った機能性とは無関係に構築されているのです。涼しさからいえば背広にネクタイよりもベストとスカートのほうが勝っているはずですが、生物学的快適さと文化的快適さは必ずしも一致しません。ここが問題なんですね。
営業職のとある知人男性から、「僕は人一倍汗かきなので、夏場は常に着替えのシャツとアンダーウェアを2枚ずつ持ち歩いている」という話を聞いたことがあります。彼はそのときもしっかり背広を着込んでハンカチで額や首周りの汗を始終拭いていました。身だしなみに対する彼の気遣いには「ご苦労さまです」と言いたいところですが、文化的快適さを優先“させられている”限り、彼の努力は実に回りくどくて効果の薄いものだなぁと思わざるをえません。暑いなら先方に断って上着を脱げばいいのに「礼儀」を重んじて我慢した結果、フーフー言いながら汗を拭い続け、背広に座りジワをたくさんつけるほうがずっと見苦しいですよ、と、わたしなんかは思うんですけどね。
男性のフォーマルスタイルである背広、ワイシャツ、ネクタイの3点セットは欧米男性の服装文化をそのまま取り入れたものであり、夏場の湿度が高い日本にはそぐわないものだとする批判的な意見があります。また、昨夏から環境省が中心となって行っているクールビズ・キャンペーンにより、「ノーネクタイ・ノージャケット」を実践している企業も見受けられます。
ただし、重要な商談や国会をはじめとした議会などでは厳格な服装を求める声もあります。「軽装は国民や顧客に対して失礼だ、だらしがない」というわけです(同席する寒がりな人や環境に対して鈍感だ、と反論することもできますが)。こういう反対意見を耳にすると、服装文化というものは決して合理的機能的観点からのみ成り立つのではなく、合理性とは真逆の儀式的儀礼的要素が大きく影響していることが分かります。あるいは、合理性の内実そのものが時代とともに変わりつつあって、いままさに新たな合理性と古き時代の合理性がぶつかりあっているときなのかもしれません。
服装文化における儀礼性とは、たとえば、王様が羽織るマント。あれ、何か機能的な意味はあるんでしょうか。そんな王様はいまはいないよというなら、ローマ法王のロングドレスみたいな服とか、法廷で裁判官が着る法衣とか、アメリカの大学生が卒業式に身につける黒い学帽と黒いケープとか。あれらは別に防寒のために着用しているわけではないですよね。とある地位に就いている人「らしさ」を表現する機能、ある地位や権力を表象するファッション・コードですよね。
国や文化の違いにかかわらず、偉い人や財を持てる人は身につける衣服も面積が多く複雑なものにして己の地位の高さをアピールする、という服装コードは明らかに存在します。男女の服装にも当然そのようなコードの違いが名残りとして存在しているはずで、それが文化的快適さという性規範の維持に貢献しているのではないでしょうか。目に見えない何かを可視化することは、文化の儀礼的性質の一つであるとともに権力の表象でもあるのですから。
仰々しいタイトルですよね。ネーミングセンスが乏しいうえに、このようなテーマがわたし一人の手に余ることは重々承知しています。わたし一人では手に負えないからこそ、いまの段階で考えていることや分かったことやまだ分からないことなどを開示して、思慮やリサーチに欠けている部分を認識したり、方向性を探っていく手がかりをつかんでいこうと思っています。
最初にお断りしておきますが、わたしは医療分野の専門家でも、現場に詳しい医療ジャーナリストでもありません。情報ソースはネットや図書資料、身近な人たちとの会話のみです。そんな程度の情報収集力で何を語ろうってんだ、という自分ツッコミはこれまで何百辺もしてきましたし、今後もずっとしていくと思います。わたしの矜持は、「素人だからこそ専門家に任せっぱなしにせず自分で考えること」のみです。そしてこの矜持こそが、このテーマの重要なポイントになるだろうと確信しています。それがどの程度納得のいくように言語化できるかが自分の勝負どころと思っています。
本日アップした第1回の内容がメインテーマとどう関係するんだ? と突っ込まれるかもしれませんが、どうか長い目で見てください。もしかするとメインタイトルはのちのち変えるかもしれません。また、「てにをは」などの間違いや誤字脱字等は見つけ次第修正していきますが、テキストの大意を後になって変えることはしないつもりです。そのときどきの自分がどう考えていたか、そしてそれがどのように変化していくかというプロセスを重視したいので。
このシリーズがどのくらい続くかは、いまの段階では予想がつきません(計画性がなくてすみません)。また、予告にも書いた通り、できる限り週1ペースを守っていきたいと思いますが、もしかしたらあっけなく挫折するかもしれません。そのときは「負け犬papyrus」とどうぞ笑ってやってください。
●生物学的快適さと文化的快適さの違い
ここ1年ほど、新宿にあるaktaというコミュニティ・センターへ出向く機会が増えました。aktaはHIVをはじめとする性感染症の情報センターであり、新宿2丁目に集う人々の「寄り合い所」みたいなところです。さまざまなセクシュアリティの人たちが出入りしていますが、利用者の中心はゲイ男性です。
aktaを訪れるひとびとはみなラフでカジュアルな服装をしています。夏場は男性陣もTシャツやタンクトップ、短パン、素足にビーチサンダルという軽装が多く見られます。夏の暑い日には当然クーラーを作動させます。わたしがここに来るのは女性メインのミーティングに参加するときですが、彼女たちは口々に「寒いね」と言い、持参した上着をはおるなどして対応していました。
それはそれで仕方がありません。生物学的性差からいえば女性より男性のほうが平均して筋肉量が多く、そのぶん熱エネルギーをたくさん放出しているので、男性は暑がりです(男女の平均値に基づいた性差より同性間の個人差のほうが大きいといえますが、その話はいずれまた)。ですから、同じような軽装をしていても、筋肉という脱げない着ぐるみを着ている以上、彼らの快適さとわたしたちの快適さに折り合いをつけるには、多少温度設定を高くしてもらい、それでも寒いと感じるならば上着で調整すればいいのです。
しかし、これが会社のオフィスだったらどうだろう、と、ふと考えます。わたしはオフィス勤務者ではありませんが、街ゆくサラリーマンたちの多くは、炎天下でもスーツの上着を着込んでネクタイを締めています。社内では上着を脱いでワイシャツの袖をまくるのが限界でしょう。半袖・短パンでもなお男性が暑がってクーラーの設定温度を低くしたがることはaktaの例を引くまでもなく明らかです。ましてや、長袖・長ズボンを着込んだ彼らのオフィスの温度設定は推して知るべしです。
わたしが不思議に思うのは、暑がりなのにたくさん着込んで暑い暑いと嘆く男性や、寒がりなのに露出度の高い服装をして冷え性に悩む女性たちだけではありません。彼らの服装文化を下支えしている性規範そのものに対してです。男らしさや女らしさは生物学的性差によって決定づけられている、という考えかたを本質主義といいますが、男女の本質であるはずの生物学的性差に忠実に従うのであれば、筋肉量が多くて暑さに弱い男性は女性よりも薄着をしてしかるべきではないでしょうか。なのに、現実はまったく正反対であり、生物学的性差との整合性がとれていません。
ごくステレオタイプなフォーマル・ウェアについて考えてみましょう。男性の場合は背広、ワイシャツ、ネクタイ、スラックスです。女性の場合は制服(なぜか女性勤務者に対してのみ制服を規定するケースがあっても、男性勤務者に対してのみ制服を規定するケースがないのは不思議です)を想定すると、ブラウス、ベスト、膝丈スカートです。冷えに弱いはずの女性に対して、なぜ体表面を覆う面積が少ないベストと膝丈スカートを制服として規定するのでしょうか。生物学的性差に基づくのであれば、男性の装いよりももっと保温性・防寒性に優れたものを採択すべきではないでしょうか。
男性のほうが圧倒的に暑がりなのですから、思い切って男女のフォーマルスタイルをそっくり入れ替えたほうがよほど機能的ではないでしょうか。しかし、このアイディアが「ナンセンス」ととられるのは当然です。女子の制服を着たがる男性社員は、残念ながら変態呼ばわりされるのがオチでしょうし、女子の制服を着た男性社員の姿を目の当たりにしても平然としていられる女性社員も、残念ながらあまりいないことでしょう。
結局、男女の服装文化は生物学的性差に見合った機能性とは無関係に構築されているのです。涼しさからいえば背広にネクタイよりもベストとスカートのほうが勝っているはずですが、生物学的快適さと文化的快適さは必ずしも一致しません。ここが問題なんですね。
営業職のとある知人男性から、「僕は人一倍汗かきなので、夏場は常に着替えのシャツとアンダーウェアを2枚ずつ持ち歩いている」という話を聞いたことがあります。彼はそのときもしっかり背広を着込んでハンカチで額や首周りの汗を始終拭いていました。身だしなみに対する彼の気遣いには「ご苦労さまです」と言いたいところですが、文化的快適さを優先“させられている”限り、彼の努力は実に回りくどくて効果の薄いものだなぁと思わざるをえません。暑いなら先方に断って上着を脱げばいいのに「礼儀」を重んじて我慢した結果、フーフー言いながら汗を拭い続け、背広に座りジワをたくさんつけるほうがずっと見苦しいですよ、と、わたしなんかは思うんですけどね。
男性のフォーマルスタイルである背広、ワイシャツ、ネクタイの3点セットは欧米男性の服装文化をそのまま取り入れたものであり、夏場の湿度が高い日本にはそぐわないものだとする批判的な意見があります。また、昨夏から環境省が中心となって行っているクールビズ・キャンペーンにより、「ノーネクタイ・ノージャケット」を実践している企業も見受けられます。
ただし、重要な商談や国会をはじめとした議会などでは厳格な服装を求める声もあります。「軽装は国民や顧客に対して失礼だ、だらしがない」というわけです(同席する寒がりな人や環境に対して鈍感だ、と反論することもできますが)。こういう反対意見を耳にすると、服装文化というものは決して合理的機能的観点からのみ成り立つのではなく、合理性とは真逆の儀式的儀礼的要素が大きく影響していることが分かります。あるいは、合理性の内実そのものが時代とともに変わりつつあって、いままさに新たな合理性と古き時代の合理性がぶつかりあっているときなのかもしれません。
服装文化における儀礼性とは、たとえば、王様が羽織るマント。あれ、何か機能的な意味はあるんでしょうか。そんな王様はいまはいないよというなら、ローマ法王のロングドレスみたいな服とか、法廷で裁判官が着る法衣とか、アメリカの大学生が卒業式に身につける黒い学帽と黒いケープとか。あれらは別に防寒のために着用しているわけではないですよね。とある地位に就いている人「らしさ」を表現する機能、ある地位や権力を表象するファッション・コードですよね。
国や文化の違いにかかわらず、偉い人や財を持てる人は身につける衣服も面積が多く複雑なものにして己の地位の高さをアピールする、という服装コードは明らかに存在します。男女の服装にも当然そのようなコードの違いが名残りとして存在しているはずで、それが文化的快適さという性規範の維持に貢献しているのではないでしょうか。目に見えない何かを可視化することは、文化の儀礼的性質の一つであるとともに権力の表象でもあるのですから。
