鉱物には♂♀がない
ついこの前まで、セクシュアリティやジェンダー・スタディーズ関連のネタをあれこれ追いかけていたり、このブログ自体がLGBTAQ系に振り分けられていたりするのに、なぜいまになって石なの? なーんて、誰かに指摘される前から自分でも疑問に思っておりましたのですよ。
で、よくよく考えてみたら、鉱物には♂♀がないことが、わたしにとっては魅力というか、引っかかりをまったく感じることなく楽しめる大きな要因のひとつなのだなぁと気づいたわけです。
生物界には当たり前のように雌雄があります。精子と卵子の受精を個体発生の必須条件としながら環境に順応しつつ系統発生を繰り返しているわけですし、雌雄によって習性や形態が異なるのはその通りなので別に文句はないんですが、「だから人間の男女も〜〜」というように、生物の生態を都合よく政治利用しようとする向きに引っかかりを覚えます。ACアダプターなどのプラグ類を「オス/メス」と呼ぶのもどうなのよ! って思ってるくらいなので。
***
しかし、鉱物は違います。鉱物はその生成において単一元素からなる場合もあるし、複数の元素が化合する場合もありますが、「オス/メス」なんて単純な二分法で分類できるものではありません。組成がまったく同じ仲間でも、色や形状、質感が違ってて当然です(ダイヤモンドと鉛筆の芯が組成的には単一炭素からなることは広く知られています)。
たとえば、ここの「鉱物のページ」を見てください。同じサファイアの仲間でも色はさまざまです。赤鉄鉱(Hematite)は形状もさまざま。蛍石(Fluorite)のバリエーションのなんと豊かなこと。
そもそも「分類」なんてーのは、人為的、つまり政治的な営為であって、どの仲間に組み入れられようと鉱物には関係のないことです。彼らは泰然としています。分類に頭を抱えたり論争したりする人間どもを横目に。
***
もうひとつ、鉱物図鑑を見ていて驚かされるのは、「これほんとに鉱物なんですか?」と思えるような形状のものの多いこと。樹枝状のもの、バラや菊などの花弁状のもの、ウニかマリモのような針状球体、動物の毛皮のような毛状のものなどなど。写真をじっと見ていると、まるで海底の様子を覗いているような気分になります。
逆に、精密に製図したかのような立方体や直方体、多面体、板状のものなどにもビックリです。生物界には直線は存在しない。でも、鉱物界には当たり前のように存在します。幾何学に登場する正多面体を見るたびに、「こんなもん自然界には存在しねーよ」と、中高時代のわたしは幾何学を虚学とみなしておりましたが、とんでもない。幾何学は自然(鉱物)界を模倣していたのだといまさら気づく無知っぷり。
しかし、子どものころを思い出してみれば、コートの袖にそっと振りかかる正六角形の雪の結晶をまじまじと眺めておりましたし、霜が降りれば霜柱が地面と垂直にまっすぐ伸び上がっている様子を見ていたし、水たまりの氷や凍てついた窓ガラスの結晶は定規でスッと引いたような直線がたくさん重なりあって美しい模様を描いているのを、ただただ見つめていました。
毎日調理に使っている塩だって、よくよく見ればきれいな立方体です。なんて、当たり前のことに改めて気づいて愕然としたり(しなかったり)。
***
もう少し記憶の芋掘りを続けてみると、幼少のころから我が家には動植物図鑑があって、暇さえあれば引っ張り出して眺めておりました。特に海の生き物が大好きで、ユーリファリンクスやリュウグウノツカイ、ダイオウイカなどの写真を見ては、「一緒に泳ぎたいな〜」と夢想しておりました(いずれも深海魚なのでどだい無理な話ですが/汗)。
でも、鉱物図鑑はありませんでした。いまから思えば残念なことです。わたしがオス/メスの分類に引っかかるのは、実は幼少期から生物図鑑を見て知らず知らずのうちに自己暗示にかかっていたことが影響しているのかもしれません。幼いころから鉱物に親しんでいれば、いまごろは軽〜くジェンダー越境的な思考の人になっていたかも。
というわけで、一家に一冊おすすめの鉱物図鑑を。『楽しい鉱物図鑑』
***
つーわけで、ジェンダー規範の維持・強化のために生物学を政治利用する了見の狭い連中なんぞ放っておいて、ワールドワイドならぬコスモワイドの視点で鉱物のバリエーションの豊富さを見習っていくつもりです。地球外から降ってきた隕石も当然鉱物です。地球以外の太陽系惑星に生物は存在しなくても、惑星それ自体は鉱物ですしね(ガス球体もありますが)。
もひとつ言うと、鉱物の世界ではマジョリティーには価値がありません。ありふれた石はズリ(廃石)です。産出量の少ない希少な鉱物ほどマニアに尊ばれます。人間社会とは真逆ですね(ちなみに鉱物マニアは人間社会では「ダメ人間」に分類されます。なんと光栄なこと!)。「みんな一緒」という協調性の高さを良しとする教育は、天然石をトリートメント処理して価値をなくすようなもの。個人の貴重な資質をダメにします、確実に。
学校の「生物」の授業はぜんぶ「鉱物」に変えたらいいと思います。「生物」ってジェンダー規範をサブリミナルに教え込む洗脳教科でしょ。生物ではなく鉱物を見習いましょ!
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2006/11/08 |
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そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
宮沢賢治にはほとんど興味がなかった。学校の国語で習ったのは「アメニモマケズ」「あめゆじゅとてちてけんじゃ」レベル。『オツベルと象』
伝記的な賢治像も「清貧」を絵に描いたような人で、貧しい農民たちのために見返りも求めず農業教育に貢献した「清く正しく美しい」立派な人って感じで、どうも親しみがもてなかった。むしろヤなヤツ? なんかできすぎじゃんお前、みたいな。まぁそれは賢治のせいではないのだけれども。
【石っこ賢さん】
しかし、石本のたぐいをいろいろ繙いていくと、幼少のころから石狂いだった賢治が「石っこ賢さん」と呼ばれていたエピソードがあちこちに登場する。彼の作品にも石がよく出てくる(らしい)。
そんでもってようやく本日『宮沢賢治 宝石図誌』
【清貧どころかボンボンの石マニア】
「清貧」と「自己犠牲」の塊のような人。それが宮沢賢治に対してわたしが勝手に抱いていたイメージ。しかし、賢治が農業教育、農業開発に力を入れはじめたのは29歳のころからで、晩年のほんの8年ほどのこと。それまでの賢治は鉱物マニアで、遠足や郊外散歩に出かけるときは愛用の金槌を必ず携えていったし、農林学校でも農芸化学を専攻し、土性調査や岩石の定量分析をやったり、卒業して上京した折には宝石加工商をはじめるべく父親に出資依頼をしたりと、石に取り憑かれていたとしか思えない状態だった。
しかも実家は商売をやっている裕福な家庭。なんだ、賢治っていいとこのボンボンだったんじゃん。当時の額面で200万〜300万円の投資を平気で父親にお願いしてるしさ。なんかイメージががらりと変わっちゃった。
【布教活動+石狂い=文筆活動】
石に魅せられた賢治は、中学のころから短歌をつくるようになり、そのなかにもすでに「瑪瑙(めのう)」などの鉱物名が登場していた。ほどなくして法華経に目覚め、信心深くなっていく。高校では友人たちと同人誌を刊行して短歌や小品を発表。卒業後、家人に無断で上京し、法華経の布教活動に参加。会の幹部の勧めにより、文筆で法華経の精神を布教すべく、童話を書きはじめる。月に3000枚というものすごいペースだった。このとき賢治24歳。
翌年には詩集『春と修羅』
28歳のとき、『春と修羅』『注文の多い料理店』をそれぞれ1000部自費出版するも反応は芳しくなかった。農学校教師をやりながらの執筆活動だったが、30歳になって辞職し、花巻の祖父の別荘で自炊生活に入り、荒れ地の開墾をはじめる。それ以降も細々と文筆活動を続けるも、作品に宝石や貴石は登場しなくなった。32歳から病を患い、以後闘病生活が続き、病床の人となって37歳で生涯を閉じる。
【賢治のオノマトペ】
賢治の作品にはオリジナルの擬音語が頻繁に出てくる。『十力の金剛石』もその筆頭で、
(天河石(アマゾンストーン/アマゾナイト)の)りんだうの花はギギンと鳴って起きあがり、
とか、
うめばちさうはブリリンと起きあがってもう一ぺんサッサッと光りました。
とか、
ギギン、ザン、ギギン
ツァランツァリルリル
サンガ、サンガリン
ツァリル、ツァリル、ツァリルリン
サァン、ツァン、サァン、ツァン
などなどのオノマトペが多数登場して、ついつい音読したくてウズウズする。
【『十力の金剛石』と錬金術】
十力とは、仏のありがたいお知恵には十の力があるということからきており、金剛石はダイヤモンドのこと。
ある国の王子が大臣の子と一緒に金剛石を探しに山へ行く。現実世界からファンタジックな心象世界へ入り込んでいき、森の草花も鳥も動物も地面も降る雨もみな色とりどりの宝石でキラキラと輝いている。宝石たちは十力の金剛石がやってくるのを待っているが、なかなか訪れないので不安になったり悲しがったり。
最後にようやく訪れた十力の金剛石は、実は露だった。ものみなめざめさせる「光の波、かんばしく清いかほり、すきとほった風のほめことば」、それが十力の金剛石。仏のありがたい知恵を甘露というが、賢治がいおうとしたのはそのことだったのだろう。
この童話は中世ヨーロッパの錬金術師たちが求めた「賢者の石」伝説にとてもよく似ている。錬金術師たちは、多くの例外があったにせよ、本当は金を作り出そうとしていたのではなく、化学的過程においてある種の心的体験をしていた。化学的な実験や研究を通じて心の変容過程の究極状態に至った。それが彼らのいう「金」だった。
「賢者の石」もまさしくそれである。物理的な質量をともなったモノとしての石ではなく、この世のしくみ、ことわりを直覚する体験であった。そう考えると、賢治が法華経と鉱物の両方に傾倒していたことがすんなりと理解できる。
ちなみに、英名のダイヤモンドとは「征服しがたい」を意味するギリシャ語がもとになっている。漢名の金剛石もまた、「何ものにも侵されない」を意味する「金剛不滅」という仏典の言葉が語源である。
【理系の文人】
専攻からいっても賢治はまごうかたなき「理系の人」である。理系出身の作家は決して珍しくない。いまでいえば瀬名英明とか森博嗣とか、思想家の吉本隆明も理系出身。ただ、賢治の場合は作品に専門知識をそのまま活用したわけではなく、異なる物質が化合したときに起こる色彩や形状の変化を心象スケッチ風に描写している。科学的な裏付けや解説はむしろ無意味で、鉱物の色やきらめき具合、手触りなどを重視した。夜の闇を藍晶石(カヤナイト)の濃い紫色で形容したり、夜明けの雲の様子を青玉髄(ブルーカルセドニー)にたとえたり、黄色い草穂を猫睛石(キャッツアイ)に見立てたり。
鉱物の知識のみならず、研究調査における専門知識を詩的に用いてもいる。たとえば「ティンダル効果」。ごく薄い石鹸水や泥水の上澄みなど、微細なコロイド粒子の散在した溶液をゾルといい、これに光を通すと、その通り道がボーッと光ってみえる。雲間から差す陽の光がカーテンのように見えるのも、大気中の細かい塵が光を反射して可視化させるからである。これをティンダル効果という。
楽才に秀でた教え子を見送る際に賢治が贈った次の詩は、このティンダル効果を取り入れたもの。
告別
みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いヽかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいヽ
【蛇足】
わたしのような文系ど真ん中の人からすると、「理系」というだけでもうミステリーワールド。「ティンダル効果」にしても、「ドップラー効果」とか「フェーン現象」とか「バタフライ効果」とか、「ユークリッド幾何学」とか「フェルマーの最終定理」とか「フレミングの法則」とか「ファラデーの法則」とか、その名前を聞いただけで、なにかのマジックワードかありがたい教典のような気がして、変にワクワクしてしまう。
ここに書いたことも、もうとっくにご存知のかたがたくさんいることだろうから、なにをいまさらと思われるかもしれないが、知らない人間にしてみればほとんど青天の霹靂みたいなものである。こういう驚きを得るとき、「無知」はちっとも恥ずかしいことではなく、知らなかったことを知るときの新鮮さや喜びが伴うので、無知のありがたみをしみじみ感じたりもする。まったく図々しい限りである。
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2006/11/06 |
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石のネット通販、是か否か?
目利きというほどではないけれど、これでも一応約20年のキャリアである。ひと玉680円くらいの安売り大玉スイカでも、打診すれば糖度の高い上質な一品を選び出すことができるし、一通り打診して納得のいく音色のものがなければ、そのときは買わない。
ついでに、食べ終わったあとの皮は、緑の表皮をむいて白い部分を薄切りにし、塩、ゆず、こんぶだしなどで漬け物にすると美味い。一挙両得。
***
おっと、話がそれた。要するに、いただきもののスイカとか、通販で写真と値段と能書きだけ見て買うとか、そういうのはどうも信用ならないんである。確かに、なかなか市場に出回らず、地元だけで消費されていたような稀少の美味なるスイカが、「幻の〜」なんて枕詞とともに通販サイトでも高値で取引されていることだろう。しかし、わたしの楽しみは、身近な店で自分の目利き具合を確かめ、また切磋琢磨するほうにあるのだ。
スイカ以外にはほとんど目が利かない。野菜だって魚や肉だって、さほど産地にこだわっているわけではないし、卸市場でマグロの尾の切り口を見ただけで脂が乗ってるかどうか判断できる鮨屋の職人さんのようなこだわりも熱意もない。
***
では、石はどうか。ちょっと検索をかけただけでも、鉱物や天然石の通販サイトにたくさん出くわす。そのほとんどは写真入りで、サイズや形状、性質、効能までもご丁寧に解説されている。ほしいと思っても、自分の足で探すのはなかなかたいへんな場合もある。そういう意味では、石の通販はひじょうに重宝だ。
しかし…と、ふと考える。肌身離さず持ち歩いたり、自分の部屋に飾っておくための石は、やはり、できることなら実物を自分の目で確かめ、その手で触ってみたほうがいいと思う。写真と現物の間にはけっこうな違いがあるものだし、サイトの運営者によっては、まがいものをつかまされることもあるかもしれない。だが、それは店頭で買う場合にだってありうる話だ。それだけでなく、自分に必要な石は、自分の身体が知っているのであり、身体に教えてもらうためには、実際に石を見たり触ったりするしかないのだ。
開運系の石本/石サイトには、「この石は血液を浄化し、心身を健康にしてくれます」とか「精神の安定をもたらし、悩みごとや心配ごとを追い払ってくれます」なんていう石の効能が事細かに解説されているが、「効能ありき」で石を選ぶのは本末転倒なのではないかと思うのだ。「恋人がほしい」だの「金運を上昇させたい」だのという現世利益的な動機は、おそらく身体の知恵や直感を鈍らせるような気がする。
そうではなくて、多くの石を見て、パッと目に飛び込んできたものを、自分の手に取ってみる。握りしめてみる。そうしてみて、嫌な感じがしないとか、ポカポカと温かくなる感じがするとか、触れて心地の良いものを選ぶ。石の効能は事後的に調べてみればいい。そうすれば、「いまの自分にはこれが必要なんだな」ということがわかってくる。「アタマの欲望」に引きずられるのではなく、「カラダの欲求」に静かに耳を傾けてみることが大切だ。
***
さきに紹介したウォーターメロンは、電気石に分類される。電気石とは電気を帯びた性質を持つ石で、それを身につけていれば、物理的に電気のパワーが肉体に働きかけることもあるだろう。けれども、「自分の身体に聞く」という方法で石を選んでみると、モノの本質は物理学的な質料的な性質にあるのではなく、その「色彩と形」にあることがわかる。
というか、自分が石を選ぶのではなく、石に自分が選ばれる、石に引き寄せられるのである。だから、一通り眺め回してみて、ピンとくる石がなければ無理に手に入れる必要はない。いまの自分にマッチする石はここにはないんだな、と思っておけばいい。
価格や希少性などにこだわらず、開運系パワーストーン紹介サイトや専門書にみられる石の効能書きをあてにせず、自分が美しいと感じたものを見たり触れたり、それとともにあるのは気持ちがいい、だからわたしはそれを愛する、というマイ・カルチャーを自分のペースで育てていくこと。わたしの“石フィーバー”の根幹にあるのは、こんなシンプルで素朴な美意識だ。それはなにも石に限った話ではないのだけれど、石を通じて自分のものの考えかたや感じかた、世の中の見えかたがよりクリアになってきて、とても面白い。
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2006/10/28 |
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誕生石より星座石
星座石は星座そのものではなく、星座を守護する星の特徴によって決まる(12星座のネーミングにはそれなりの由来があるが、占星術的には大した意味も性質も特徴もない。むしろ守護星の特徴のほうが重要)。だが、業者内の談合で基本的には各月ひとつと決められている誕生石に対し、星座石はそれほど単純ではない。ひとつの守護星に複数の宝石が関わっているだけでなく、同じひとつの宝石が複数の星座と関わっていることも少なくない。
12星座の守護星は7つ。太陽(獅子座)と月(蟹座)以外の5つの惑星は、それぞれ2つずつ星座を守護しているので、たとえば土星を守護星に持つ山羊座と水瓶座は、星座石が共通している。土星の基本色は黒または茶色。守護石はオニキス、オプシディアン(黒曜石)、スモーキー・クォーツ(茶水晶、煙水晶)、ヘマタイト。
渋谷の石屋さんに行ったとき、自分が目を惹かれるのはファントム・クォーツ(これ とかこれ )、デザート・ローズ とか、シャーマン・ストーン とか、アズライトとか、どれもこれも透明度とはあまり縁がないタイプのジェムたちばかりだった。あれこれ選んで結局購入したのはヘマタイトのブレスだったし。思うつぼじゃん。チッ。
そんなわけで、月ごとに人為的に定められた誕生石よりも、守護星の特徴に照らし合わせて選ばれた星座石のほうが、はるかに理にかなっていると思われる。
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2006/10/28 |
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石に宿る神
徳井いつこ『ミステリーストーン』
ある客は水晶に手をかざし「あ、くる、くる!」と狂喜し、またある客はアメジストの晶洞のなかに頭ごと突っ込んで「うー、すごい」とうなり、またある客は石の中に小さな人が住んでいてそれが話しかけてくることを熱心に語り、別の客はどういうわけかガイガーカウンターを片手に放射能をだしている石ばかりを集めたがり、また別な客は閃ウラン鉱という強い放射能性鉱物をお守りと称して肌身はなさず、また別の客は長石を浸しておくと二級の酒が一級になると信じて疑わない(後略)。
山勘とは、鉱物を探して山中をうろつきまわる山師の勘のこと。鉱物を掘り当てるのが上手な山師は、まさに勘と運だけが頼りである。彼らが鉱脈を発見するというより、掘られるのを待っている鉱脈が彼らを呼び寄せているかのようだ。勘と運に恵まれた山師は、山師となるのが宿命だったのだろう。いくら鉱物が好きでも、鉱脈を探し当てられない者は山師に向かないのだった。つまり山師とはある種の超能力者なのであった。
***
ユングと石のきずなはとても深い。子どものころに暮らした家の庭には洞窟があり、その前に一個の石が埋まっていた。ときどき一人でこの石に座ってぼんやりしていたユングは、いつも不思議な物思いにとらわれた。自分が石の上に座っているのか、あるいは自分の上に一人の少年が座っているのか、石と自分の区別がつかなくなった。
石のなかには宇宙の限りのなさ、有意味なものと無意味なものとの混乱、および非人格的な目的と機械的な規則との混乱等が隠されていた。石は存在の底知れぬ神秘さ、つまり霊の具現を含んでおり、同時にそれそのものであった。私が石と自分との類似だとかすかに感じていたものは、死んだもの、生命のあるものの双方における神性だったのである。
(『ユング自伝――思い出・夢・思想』)
75歳の誕生日を記念して、ユングは自宅の庭に石碑を建てた。石切り場から運ばれてきた石に、自らノミをふるって文字を彫ろうとすると、言葉が次々と浮かんでは消えた。「石自身に語らせよう」と考えた彼は、次のような詩文をラテン語で刻みつけた。
私は孤児で、ただひとり、それでも私はどこにでも存在している。私はひとり、しかし、自分自身に相反している。私は若く、同時に老人である。父も母も、私は知らない。それは、私が魚のようにうみの深みからつり上げられねばならなかったから、あるいは天から白い石のように落ちてくるべきであったから。私は森や山のなかをさまようが、しかし人の魂のもっとも内奥にかくれている。私は万人のために死にはするが、それでも私は永劫の輪廻にわずらわされない。
***
ゲーテはドイツ鉱物学会の創立会員だった。彼の名にちなんで「ゲータイト(ゲーテ鉱)」と名づけられた針鉄鉱もあるほどだ。ユングはゲーテの『ファウスト』
ジョージア・オキーフも石マニアだった。来客があると「遠足」と称して珍しい鉱脈の走る渓谷や閉鎖された鉱山跡を案内し、一緒に石を探すのを好んだ。彼女の遠足に同行した写真家エリオット・ポーターの家に招かれたとき、遠足で彼が見つけた石を、オキーフはこっそり自分のハンドバッグに忍ばせた。彼女は「自分が本当にほしくてたまらない物であれば、絶対に手に入れることができる」と公言していた。
ロジェ・カイヨワは「絵入りの石」に取り憑かれていた。瑪瑙の縞、大理石の幾何学模様、岩石の隙間に浸透した方解石が描き出す模様などが絵に見えるものである。その偶然の相似に、見る者はみな唖然とした。彼の著書『石が書く』(「石に」でも「石を」でもない!)では、自然がつくりあげた「絵入りの石」を次々に紹介している。廃墟と化した風景、イトスギの並ぶ田園風景、鳥が舞う空を背景にした城館のシルエットなどが、それぞれの石に浮かび上がっている。
***
『ツァラトゥストラ』を書くにあたって一個の岩の前で超常的な体験をしたニーチェは、それを「圧倒的な力」と表現している。ニーチェは石の作用によって『ツァラトゥストラ』の構想を受胎したようだ。
わが身のうちにほんの少しでも迷信の名残りをとどめている人なら、そのとき、実際に自分が圧倒的な力の単なる化身、単なる口、単なる媒体にすぎないとの想念を避けることはほとんどできないであろう。口に言えないほどの確実さと精妙さをもって、人の心を奥底から揺さぶり覆すようななにものかが突然眼に見えるようになり、耳に聞こえるようになるという意味での啓示という概念は、単に事実をありのままに叙べているにすぎない。人は聞くのであって、探し求めるのではない。受け取るのであって、誰が与えるのかを問いはしない。稲妻のように一つの思想が、必然を以て、躊躇いを知らぬ形でひらめく。――私はついに一度も選択したことがなかった。これはある恍惚の境地であって、すさまじいその緊張はときおり涙の激流となって解け落ち、足の運びはわれ知らず疾駆となったり、漫歩となったりする。完全な忘我の状態でありながらも、爪先にまで伝わる無数の微妙な戦きと悪寒とを、このうえなく明確に意識している。
『ツァラトゥストラ』第4部完成の4年後、ニーチェは狂気に囚われた。最後の著書『この人を見よ』
1889年1月3日、ニーチェは外出先の広場の路上で突然昏倒する。下宿に担ぎ込まれ、2日2晩の昏睡状態から目覚めた彼は、以前の彼ではなかった。大声で独り言をいい、やたらと歌い、子どもに返ったように何時間もピアノを弾き続けたり、夕日を眺めてすごしたり、多くの奇怪な手紙を友人や未知の有名人たちに送りつけたりした。彼を診察した医師の診断は「麻痺性精神障害」(脳梅毒)であった。
***
ユングは、ニーチェの身の上に起こったことに震撼した。彼は自分の5年間にわたる無意識との対決をニーチェと同一の現象とみなしていたからだ。彼は自伝にこう書いている。
私はスイスの大学からもらった医師の資格をもっていること、私は患者を助けねばならないこと、妻と5人の子どもをもっていること、キュスナハトのゼーシュトラッセ228番地に住んでいることなどは、私にいろいろな要求をしてくる現実であり、私が実際に存在していること、ニーチェのように、精神の風のまにまに舞っている白紙ではないことを私に立証するのであった。ニーチェは彼の思想という内的世界――彼がそれを所有しているよりも、ときにそれが彼を所有しているーー以上の何ものも持たなかったので、彼は足場を失ってしまったのだ。彼は根こそぎにされ、宙に迷っていた。したがって誇張や非現実性に屈服させられたのだ。
その研究プロセスにオカルトティックな要素を濃厚に含みながらも、精神科医としてのリアリスティックな側面が、ユングをしてニーチェを「狂人」の側に追いやり、まるで彼を哀れんでいるかのようである。
***
キューブリックとアーサー・C・クラークによる『2001年宇宙の旅』
この石板の謎を解くべく木星に送られた宇宙探索船ディスカバリー号は、コンピュータHALの反乱で危機に陥る。船内に一人生き残ったボウマンは、木星の軌道に入ったとき、あの巨大な石板が暗黒の宇宙空間に浮かんでいるのを発見する。石板に近づくと宇宙船は突然異次元空間に突入する。
ふと気づくと、ボウマンは中世風の優雅な部屋に住んでいる。彼はひどく年老いて、ベッドの上で息を引き取ろうとしていた。眼前にはまたしても例の石板が立っており、彼が静かに手を挙げて会釈すると、年老いたボウマンはベッドの上で胎児になっていた。宇宙の全知全能の力に触れた経験をそっくり抱えたまま新しい生をスタートする、超人類の誕生だった。
***
いや、ちょっと待てよ。日本にだって石にまつわる不思議な言い伝えや石の文化は存在する。路傍の祠には石神がまつられているし、山梨県には球体の石を神体とする丸石神信仰が古くからある。
鹿島神宮の「要石(かなめいし)」には、その地下深くに巨大ナマズが棲んでおり、この要石がはずれるとナマズが暴れ出して大地震を引き起こすと信じられていた。日照りが続くと、人々は特定の沼、川、滝にいって小石を投げ込んだ。水神(大蛇や竜)が怒って暴れ出し大雨が降ると信じられていたからだ。社にまつられている「雷石(かみなりいし)」を手荒に放り出して坂道に転げ落とすと雨が降るとも信じられていた。
神社の鳥居のうえにどっさりと願掛けの小石が積まれた様子はいまでもよく目にする。地蔵や道祖神の祠に供えられた小石、霊山や賽の河原に積み上げられた石などは、石を神、もしくは異界交流の仲介役と見なされているらしい。石のタワー。まるでモノリスのミニチュア版じゃないか。とり・みきにも『石神伝説』
***
ここで突如思い出す。父方の祖父・栄一は、結婚してすぐに徴兵され、アリューシャン列島のアッツ島へ送られた。昭和18年5月、アッツ島には米軍が上陸し、凄まじい戦が繰り広げられ、同月30日にはアッツ島守備隊の全滅が大本営によって発表された。2600余名の戦死者のなかに栄一も含まれていた。爆撃を直接受けたため遺体は回収できず、彼が配置していたところにあったという石が、わずかな生還者によって持ち帰られた。そのとき、わたしの父は1歳だった。もちろん彼は実父の記憶をまったく持っていない。
その石が、実家の仏壇のなかにおさめられている。子どものころのわたしは、親の目を盗んではそっと遺骨入れのふたを開け、その石を手に取ってしげしげと見つめていた。子どもの手のひらにおさまるほどの大きさで、全体的に丸みをおびた灰色の石だったが、その表面は無数の細かいガラス片が埋まっているかのようにキラキラと輝いていた。
なぜこんなことを思い出すんだろう。石、狂気、啓示、魔力。これまでバラバラだったさまざまな符号が、一気に集約されていく予感。
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2006/10/26 |
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石のはなし
そのかたはほどなくしてお亡くなりになったので、
遺品となってしまった。
石にはまったく興味がなかったのだけれども、
「ときどき塩水で洗って乾燥させてね」と言われるままに、
半年か1年おきに石を洗っている。
今年に入ってから、HRさんに、
「毎日1本ずつでいいからお部屋でお香を焚きなさい」と言われ、
そのまま素直に焚いて、すっかり習慣になってしまった。
で、今日、MHと電話でその話をしていたら、
「水晶を手に取る人は、直感や霊感にすぐれているんです。
芸術とか文学とかの才能に関係があることが多いんですよ」と言われた。
でも、別に自分がほしくて積極的に持っているわけではないんだけど、
と言うと、
「それでも、いただいたということはご縁ですから。
それをいまでも大事にしているのはいいことです。
縁があるからあなたの手元にやってきたんです」と。
水晶は「浄化」の作用がある、と、
いつかどこかで聞いたことがあった。
「だから、占い師の人たちは、
相談者から負のエネルギーをまともに受けないように、
吸収して浄化してくれる水晶を手元に置いているんです」
と聞いて、改めて納得。
MHは、オタク自認はしていないが引きこもり自認している変人。
石に詳しくて、以前天然石を扱う店に勤めていたこともある。
「石はいろんな人のいろんな念を吸収しているから、
ときどき水で洗ったり盛り塩に埋めたりして、
リセットしてあげたほうがいいんです。
あと、お香の煙をくぐらせるとか」
なるほど。石の知識は皆無に等しいわたしではあるけれど、
言われたことを素直にやっていたのは結果的に良かったのだ。
MHが以前勤めていた店に、
仕事がまったくなくて困っているフリーランスのデザイナーがやってきた。
そこでその人の悩みに応じて石をコーディネートしてあげたところ、
翌日からバンバン仕事が入ってきたとのこと。
「へー。で、キミの運気も石でコントロールしてるの?」と聞くと、
「あまり意識はしてないですね。
石は、背中をちょっと押してくれるだけの存在なんです」。
それはそうだよな。
自分で何がやりたいのか分かっていない人の背中は、
いくら力のある石にも押しようがないもんな。
ちょっと石に興味が湧いてきた。
そんなわけで今度、MHお勧めの石屋さんにいくことになった。
「papyさんが最初にどの石を手に取るか、見物ですね」だって。
なんか、試されている気分。。。
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2006/10/21 |
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