「冷血」とは誰のことか?


『カポーティ』
主演のフィリップ・シーモア・ホフマンがカポーティ自身に似ているかどうかは、わたしにはどうでもいいこと。この映画を(DVD化を待たずにわざわざ映画館で!)観たのは、カポーティや彼の代表作『冷血』
井田についてはこのエントリーで触れているので参照していただきたい。
映画の内容は、いずれ自分の代表作となる『冷血』をカポーティが執筆する経緯を描いたもの。すでに著名な小説家だった彼は、1959年11月にカンザスの平和な田舎町でおこった一家4人惨殺事件のニュースを新聞で読み、その顛末を取材して忠実に書き起こしていくことで、ノンフィクション・ノベルという新たなジャンルを切り開こうとした。
『冷血』の上梓によってさらなる名声を博したカポーティだったが、その後、84年にアルコール中毒で他界するまでに、前作を越えるような作品は完成できなかった。短編や未完の書(『叶えられた祈り』
今作の監督ベネット・ミラーは、「カポーティが『冷血』以後にある種のスランプに陥って本を書けなくなっていった理由に迫りたい」というようなことをどこかのインタビューで答えていたが、2時間程度の尺ではそこまでカバーできるはずもない。映画に期待させるためのサービストークといったところだろう。
映画のなかのカポーティは、いかにもfagotらしいナルシスティックな服装と舌足らずでハイトーンのしゃべりかたで登場する。そして、文壇仲間たちの前ではジョークを飛ばして笑わせ、華やかな注目を集める一方、一人ホテルの部屋にこもっているときは鬱々としている。だが、わたしにとってはこのような映像表現よりも、井田の以下の描写のほうが、カポーティをはるかにリアルにイメージすることができる。
「彼(カポーティ)は鏡に対してフェティッシュなナルシストだったと言われている。フェティッシュだったかもしれないが、ナルシストというのは間違いだと思う。自分の美しい顔にうっとりできる人はそれだけで幸せで、とくに文字を書きたいとは思わないだろう。
美貌に希望より絶望を、そして、笑顔に人なつっこさより苦悶を見てしまうのが文字を書く人の常だ。そして鏡は、他人を魅了するものは完璧さではなく、おぞましい奇形だということを容赦なく教えてくれる」(井田;前掲書)
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カポーティは犯人の一人であるペリー・スミスに強く惹かれた。風貌、生い立ち、キャラクターなど、ペリーの持ちうるすべてを自分と重ねあわせた。ゲイであるカポーティを揶揄して、ペリーに性的に惹かれたのではないかとか、彼ら2人は密かに肉体関係を持っていたという証言もあるが、真偽のほどは定かではないし、ゴシップレベルの下世話な想像ほど陳腐でありきたりで退屈なものはない。
井田は前掲書のなかで、第一にカポーティとランディ・シルツを取り上げている。シルツは、のちにエイズと呼ばれるようになった正体不明の疫病についてのレポートを、『そしてエイズは蔓延した』
『冷血』という表題は、単なる物盗りのために見ず知らずの善良な一家を殺害した2人の若者を形容しているわけではない。むしろ、そのような犯人たちの犯行の動機、背景、事件の顛末を根気よく(執念深く)取材するカポーティ自身の姿勢を端的に表したものである。
カポーティは、2人の犯人を丹念に取材しながら、彼らの犯罪を非難するでもなく同情を寄せるでもなく、一定の距離を保ち続けた。そして、彼らの減刑嘆願をしなかったことを方々から責められた。
シルツもまた、エイズの「0号患者」(積極的に感染を拡大させた最初の感染者)と呼ばれた、美しきスチュワードのガエタン・デュガについて、一言も批判的なコメントを述べていない。
井田は彼ら2人の共通点をこう述べる。
「やわな想像力など軽々と凌駕する事実をとらえるために、よく聞き、よく見て、忠実に書く。その作業なしには、事実は、ただ抽象的なものに留まるだけだ。事実の本性――とてつもない野蛮さーーは、ただ見て、聞いて、書き取ることでしか捕捉できない。(中略)作家がわたりあう事実が野蛮なら野蛮なほど、それを記述する作業は、冷血=冷徹なものにならざるをえない」(前掲書)
そして、2人とも勉強が不得手だったという史実を引いて、
「事実という、とんでもなく理不尽なものに立ち向かっていこうとする人は、そもそもどこか、頭の構造に欠損部分がある人なのだ。そこそこ頭がいい人間なら、事実そのものと向かいあいたいとは思うまい。ものごとはだいたい予定調和的におこるものだと考え、そこで事実から顔をそむけてしまうものだ」(前掲書)
と皮肉めいた賛辞を送っている。これは井田自身の資質と取材・執筆態度にも共通した、矜持と忸怩たる思いの入り交じった所感なのだろう。
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84年に他界したカポーティ、93年にエイズで亡くなったシルツとは、当然ながら井田は面識がなく、直接本人に取材することはかなわなかった。それを承知で執筆した『かくして〜』は、取り上げた作家たちの著書、評伝などをもとに彼女自身が作家像をつくりあげ、想像上の円卓会議によって故人たちにインタビューした、どのジャンルにも振り分けることができない寄書(メタ・ノンフィクションとでも呼ぶべきか?)である。
著書の「引用」を超越して井田自身の肉声となったカポーティの、『冷血』における取材・執筆の態度を、井田はこう語る。
“見知らぬ他人が見たもの、見知らぬ他人が語ったことを、よけいな小説的想像力抜きで構築するだけで、作品は十分作品足りうる。ただそのためには、その他人が未知の人であっても自分とわかちがたい存在であることが必要なんだ。
胸がつまるほどわかるんだ。彼は、彼らを殺さなくちゃいけなかったんだ。あの日じゃなくても、別の日に。別の日じゃなければ、また別の日に。悪人だからじゃない。僕にはそれがわかる。彼らはやらざるをえなかった。殺さなくちゃ生きていけなかったんだ。
こんなふうに思いながら、他人に対してと同時に、自分自身に対しても冷血漢じゃなくてはいけないっていうのは疲れる。でも僕もやらざるをえない。やらなければ生きていけない。彼らと僕はすでに同じ道を走り出してしまったんだ” (前掲書)
さらに、この2人は、おのおの別の時代に似たような質問を受け、似たような回答をおこなっている。その質問とはつまり、「あなたの作品はノンフィクションでありながら、あまりにも都合のよい情景が描かれている。これほど劇的で暗示的な描写がなされるということは、なにがしかの創作が加えられているのではないか?」というものだ。それに対して2人はこう答えている。
シルツ「ときどき物事は偶然に、そして完璧に起こることがあるんだ。誰かのことを調べていると、別の誰かとの接点が浮かび上がり、さらにその人は別の重要な人物の関わりあいをすべて実証してくれるというような」
カポーティ「いくら僕の本から<僕>という表現が省かれているからといっても、本をよく読んでくれればわかるはずだ。<僕>は神じゃない。誰かが何かをしている、と僕が書くとき、それは別の誰かがそれを見ていて、僕に証言してくれるときなんだ。
信じられないかもしれないが、いつも、人間は誰かに見られ、誰かとつながっている。ありのままにおこったことを書いて、それが作品になるということは、そういう偶然が僕自身も予期しないうちに手に入るということなんだ」
本書の企画書で、「随時、彼ら(*引用者注:被取材者)の内側に棲みついて彼らの眼高から自らの“目”で、彼ら見ているものを見、また随時、外に滑り出て彼らの眼球が元通りの位置にもどり歩き出すのを確かめ、その間に彼+私の目が追ったものをレポート」すると自らの立場を表明した井田は、以下のように2人の作家を評価している。
「ノンフィクションライターに与えられる賛辞は、ただ他者の内側に深く入り込みながら、自分と他者も区別し続けられたということにつきる。それ以上でもそれ以下でもない。(中略)彼らは、それぞれの方法で内なる他者と、外の風景を同時に見て、それを批判する神の高みに立つことを賢明にさけた」(前掲書)
取材対象へのよけいな想像、解釈――それが毀誉褒貶のいずれにせよーーは、「神の視点」を詐称する、取材者の傲慢さと思考の怠惰さをあらわす以外のなにものでもない。
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なぜ映画の話から井田の著書の話に移行させたかというと、映画よりも彼女の本のほうが面白かったから、の一言に尽きる。ベネット・ミラー監督は、映画におけるカポーティを実在の人物ではなく、一つのフィクションとして練り上げたかったそうだが、果たしてそれがうまくいったのどうかはきわめて疑わしい。実在のカポーティを知らない観客ならそれもありうるだろうけれども、井田の著書に引き比べたら、フィクションとしてもドキュメンタリーとしても中途半端であるとしか言いようがない。
『カポーティ』は数多くの賞を受賞したが、それは監督の力量というより題材の勝利である、と言っては意地悪すぎるだろうか。
監督をフォローする気はさらさらないが、表現形式がドキュメンタリーだろうがフィクションだろうが、作品の題材との出会い、そこからもたらされるインスピレーションと苦悩は、作り手や書き手にとって絶望的なまでの僥倖なのだ。
生前のカポーティは、人を楽しませ、また自分に注目を集めるために、作り話をでっちあげる虚言癖があった。アンドレ・ジッドやジャン・コクトーと付き合いがあった、アルベール・カミュとベッドをともにするつもりだ、などという彼の話を聞いた者は、嘘と本当が混ざっていることに気づきながらも、どれが本当でどれが嘘かは判別がつかなかった。
カポーティがジッドの著作を読んだことがあるかどうかは知らない。しかし、ジッドの以下の言葉に触れると、ジッドと交流があったことは本当なのではないかと思えてくる。たとえ実際には面識がなかったとしても、カポーティは“想像上の円卓会議”でジッドとじっくり話し合ったことがあったのではないかとさえ思えてくるのだ。
ある題材をもとにして簡単に一冊の本を書いてしまう人たちがいる。しかし私がこれから語ろうとする物語は、私の生きる力すべて、モラルのすべてを尽くして書かれたものである。(Andre Gide “Le porte etroite”
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