HOME>books/magazines

杉山文野『ダブルハッピネス』

このたび、本が好き!というプロジェクトに参加しました。「読んでもいいかな?」と思える本を、書評を書くことを前提に献本されるシステムです。

その第一弾。


ダブルハッピネス
  • 著:杉山文野
  • 出版社:講談社
  • 定価:1680円
livedoor BOOKS
書誌データ?/?書評を書く


本書は昨年5月に初版発行。6月には2刷されているが、上記書評プロジェクトで配本受付が開始されたのは今年の2月2日(第一回の配本は昨年9月とのこと。*1)。予想に反して増刷分の売れ行きがよくないのかな? だとしたら、講談社の見通しが甘かったのでしょう。内容もかなり甘いというかゆるいけど。

そんな前置きはともかくとして。

長風呂しながら約2時間で読了。おかげでこってりと垢擦りできました。

まずは出版ギョーカイ的な疑問から。

フミノくん、これはあなたが「書いた」文章ですか? それとも講談社スタイルに則って、9時間のインタビュー取材を受け、キミは質問されたことに答え、外注テープリライターがその取材テープを原稿に起こし、担当編集が作成した章構成に従ってその原稿をリライターがリライトし、キミと編集者が原稿チェックして加筆・修正したものですか?

こんな疑問を抱いたのは、「昼間は大学院生、夜はバーテンダー、休日はフェンシングのコーチ、その合間を縫って『歌舞伎町よくしよう委員会』のスタッフ。最近では朝の勉強会とボランティア掃除もするようになった」(p251)キミに、400字詰め原稿用紙に換算して約400枚にも及ぶ原稿を書く時間が、いったいどこにあるのだろうかと思ったからだ。

どちらの形式にせよ、キミの名前で刊行した本なのだから、言説の全責任はキミに属するものとみなします。

にしても、ずいぶんとジェンダー・センシティビティの低い書であると感じた。わたしのチェックが厳しすぎるのか、キミの意識が甘いからなのか。「性について学問的に追究していく必要性を感じ、大学院進学を決意した」(p138)キミは、いまおそらくジェンダー・スタディーズやセクシュアリティ研究を行っているのだろうが、たかだか2年間の修士課程で自己に内在する偏見や思い込みや刷り込みが払拭されるものでもないし、早稲田のジェンダー・スタディーズのレベルにも問題があるのかもしれないので、その点はハンディを差し上げておこうかと。

……にしても(くどい)。

キミが「性同一性障害」者の代表だとは思わない。思わないけれども、どうしても「『性同一性障害』って、『<フツー>になりたい症候群』なんだなぁ」と思わずにはいられない。つまり、ヘテロセクシュアルという性別二元制ゲームに<フツー>に参入したいひとの一人なんだってこと。

ここで、ジェンダー/セクシュアリティに関する疑問。

キミは本書p209〜p211に、「『性の用語集』を参考にしつつ」、「おかま」「おなべ」「ニューハーフ」「ホモ」「ゲイ」「レズビアン」「バイ(バイセクシュアル)」「ノンケ」の解説をしているけれども、「トランスジェンダー」や「トランスセクシュアル」の項目がないのはなぜですか?

本書には、「FTM(Female To Male)」「MTF(Male To Female)」という言葉はほんの少し登場するけれども、上記2つの言葉は一度も登場しない。「性同一性障害」は頻出するのに、これらが出てこないのはなぜ?

しかも、「レズビアン」についての解説が気に喰わねぇ。「『ビアン』と略すのはいいが『レズ』と略すと蔑称になる」(p210)って言うけど、あたしゃ「ビアン」なんて腑抜けた略語は受け入れておりません。

だいたい、参考にしている『性の用語集』も講談社現代新書。つまり「身内」の本なんだよね。「27の性別」という見出しではじまる項目を執筆するにあたって、リライターが担当編集者に「なんかいい参考資料ないですかね?」なんて問い合わせた光景が目に浮かんでしまったりして。キミが書いたにしても、いかにも「異性愛者」の「オジサン」が「他人事」の感覚で耳学問的に編纂した本を参照するなんて安直すぎやしませんか? ちょっと調べればネットでも優れたセクシュアリティ用語集がたくさんヒットするのに(たとえば、「セクシュアリティ用語集」でgoogle検索してトップに登場する(2007年2月12日現在)のはこれ)。

続いて、「性同一性障害」についての説明部分。

 ようするに性同一性障害とは、心の性別と体の性別が噛み合わずに苦悩している状態のことである。気持ちは「男」なのに体は「女」だったり、またはその逆だったりということだ。原因については有力な説がある。受精直後に行われる性別決定のホルモンシャワー時のトラブルによるというものだ。(p67)



うわー、こんな説明になんのためらいもなく乗っかっちゃうなんて。「噛み合わずに苦悩している」ってことは、「身体的性別(sex)」と「社会的心理的性別(gender)」は「一致してしかるべきもの」という医療行政規範を受け入れているわけでしょ。そこがヘテロセクシュアルと性同一性障害者の共通点なんだな。

下記は、フミノくんがお母さんにカムアウトした場面の引用。

「何がどうであれ、フミノはフミノ。私の子どもに変わりはない。それよりも、ちゃんと産んであげられなくてごめんね。そのせいで、どれだけ辛い思いをさせてるのかと思うと、本当に……」

おかんも泣いていたが僕も泣いた。止めようと思えば思うほど涙は止まらなかった。その後の会話はおたがい言葉になっていなかったが、気持ちだけはひしひしと伝わってきた。

「あれ以来、いろいろ調べてみたんだけど……それって生まれてくる以前の問題なのよね。そうだとしたら、私たちに責任があるわけだし、一概にあなたを責められない。何がどうであれ、あなたが私の子どもであることに変わりはないわ。ごめんね。本当にごめんね……」

「ありがとう……」(p85)



フツーの感覚で読めば感動クライマックスな場面なんだろうけど、わたしにはとても「気持ちの悪い」シーンだった。

フミノくんがお母さんにカムアウトしたのは高3のときだったが、中3のときに当時つき合っていた彼女と部屋でエッチしているところをお母さんに目撃されていた。その後、お母さんは、「あんたはおかしい」「女子校に入れたのが間違いだったのよ」「きっと私がボーイッシュに育てたのがいけなかったのよ……」「カウンセリングにいきなさい。あなたは絶対おかしいよ」などとフミノくんに言ったのだ。フミノくんが「性同一性障害だと思うんだ」と言っても聞き入れなかった。

その後、性同一性障害について調べたお母さんは、ようやくフミノくんを受け入れる。しかしさー、性同一性障害なら受け入れられて、レズビアンだったら「おかしい」ってーのはどうなのよ? ここにも両者のあいだに流れる「ヘテロセクシュアリティという偽善」を感じるのよね。

それに、「ごめんね」ってなんだ? 「ちゃんと産んであげられなくて」ってなんだ? それに対してフミノくんもなぜ「ありがとう」なんて言うんだ? キミはお母さんの謝罪を求めていたのか? お母さん、あなたはなぜ「あなたを産んだことを誇りに思う」って言えないの? 何に対して謝っているの? ここらへん、「障害児」を産んだ母親にありがちなメンタリティを感じてしまう。

風呂で体を洗う時には、自分にくっついている「オッパイ」という気持ち悪い物体に触らなくてはならない。(p93)



↑自分の「オッパイ」は「気持ちの悪い物体」でも、他者の「オッパイ」は欲情と愛撫の対象なんですね。

「とにかくかっこよく生きようぜ!」ということで、「男を磨こう計画」でも立てるかとなり、(p101〜p102)



↑大学ではじめて男友だちができて意気投合する場面。男、磨かなくていいです。むしろお友だちにもあなたにも、「男らしさという病」の「治療」をおすすめしたいところです。

男に「男」として認められたのが嬉しかったのだ。(p105)



↑男友だちに性同一性障害であることをカムアウトした場面。「男」として認められることがそんなに嬉しいんですか。仲間に受け入れられたらそれで安心ですか。他者の基準をクリアして得られる自己肯定感って、脆いものだと思いますが。

フミノくんが性同一性障害の代表だとは思わないと先に述べたが、「僕の体はたしかに女だけど、僕の脳みそは男なんだ」(p168)と宣言しているので、<彼>を男性的メンタリティの代表とみなせば、これはミソジニー発言とホモソーシャル万歳発言がてんこ盛りの書である。自分の体が「恥ずかしい」(p116, p178)とか、「やっぱり僕の性別が『男』じゃないのがいけないのか?」(p63)とか、「ただ僕の体が女体というだけで、彼女に不快な思いをさせてしまっていることに腹がたった」(p109)とか、相手はフミノくんが男だろうが女だろうが関係ないと言っているのに、本人だけが気にしてるんだよね。「女の子が好きだから男っぽくしているわけでもない」(p35)ってことは、女の子を性的に求めることはキミにとって、自分の男性性を補完するための道具ってことじゃん? はい、これで「性欲は生殖に向かう本能である」なんて言い訳はできなくなりますね、男性諸君。

極めつけはセックスに関するくだり。

 何がいちばん苦痛なのか?

 気色悪い自分のオッパイの存在もそうだが、やはり、いちばん辛いのはペニスがないということだろう。彼女たちの多くは「ペニスに頼った男の勝手なセックスなんかより全然いい」と言ってくれた。しかしそうは言われても、やはりペニスがなければ満足できないのではないかと思ってしまう。立たなくなってしまうという男性の機能障害は、男としてだけでなく人間としての自信も失ってしまうほどショックなことだと聞くが、もともとペニスのない僕に自信なんてものはかけらもない。自分の男としてのアイデンティティなんてズタズタだし、存在自体がコンプレックスなのである。(p180)



ね? 典型的な男性メンタリティでしょ? 「ペニスがなければ満足できない」のはフミノくん自身であって、彼女たちではないですから。自分の欲望を彼女たちの欲望にすり替えるのはおよしなさい。そして、ペニスを用いてセックスすることが男性アイデンティティの確認になるらしいので、やはり女性はヘテロ男性の自惚れと独りよがりを補完する存在でしかないんですね。

また、フミノくんは、「気持ち悪いとかおかしいとか思われるのが何よりも恐く」(p34)と書いているにもかかわらず、そのすぐあとのくだりでこう書いている。

 今でこそ多少状況が変わってきているが、まだまだ同性愛は「ヘンタイ」として語られることが少なくない。僕も当時、女の子を好きになること(僕としては異性愛なのだが周りからは同性愛として見られてしまう)はおかしいことであり、いけないことだと思っていた。かといって男性を好きになるという選択肢は、どう考えても僕の中にはなかった。僕にとっては男性を好きになることこそ「同性愛」だったのだ。

 男性に抱きつかれたりすると、「うわ、気持ち悪い〜。僕その気(け)はないんで……」と思ってしまうのである。もちろん同性愛を否定するつもりはない。ただ、僕の場合は違うのだ。(p34〜p35)



自分が「気持ち悪い」と思われるのは恐れているのに、男性に抱きつかれると脊髄反射的に「気持ち悪い」と思ってしまうんですね。素直といえば素直だけれど、自分が排除される言説には過剰反応しても、他者を排除する言説にはすこぶる鈍感、無神経。ちなみにわたしはレズビアンですが、性別にかかわりなくハグしたいひととはハグするし、性別にかかわりなくハグしたくないひとに勝手に抱きつかれたり腕を組まれたりすり寄ってこられるのは遠慮したいです。

ですから、わたしもフミノくんを見習って、フミノくんみたいなひとを「うわ、気持ち悪い〜」と思いはしても、否定はしないことにします。でも、「気持ち悪い〜」と感じたり言葉にしたりすること自体が、他者の欲望を否定し差別することになるのよね。「気持ち悪い」とか「その気(け)はないんで」という曖昧な、それこそ「気持ち悪い」表現ではなく、「残念ながら、あなたとわたしの欲望とは相容れません。あしからず」と明確かつ丁寧に断ったほうがいいと思う今日このごろ(伏見憲明『欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない』を読んでの自己省察より)。

「ひとを好きになるのに男も女も関係ない」という言説で同性愛者を擁護する異性愛者は掃いて捨てるほどいるんですが、この言説にマストアイテムとしてもれなくついてくるのが「自分は違う(同性愛者じゃない)けどね」という余計なエクスキューズ的カムアウトだ。「男も女も関係ない」と“本気”で思っているなら、「自分が同性愛者だと思われてもいい」っていうふうにはならないのかしら。ならないみたいね。ちなみにわたしは異性愛者だなんて思われたくないので、いつでもどこでも誰にでも挨拶代わりに「レズビアンです」と言いますが。

自分との違いを「気持ち悪い〜」としか表現できないボキャブラリー貧者から、まずはフミノくん自身が卒業できることを祈っています。

唯一の救いだとわたしが感じるのは、「わざわざ何度も病院に通い、お金を払ってまで、『はい、あなたは間違いなく性同一性障害です』というお墨付きをもらうことに、なんの意味があるのだろうか?」(p246)という疑問を呈している部分。そういう揺らぎは大切。貴重。

でもね、「僕は最後に問いたい。生まれながらの『違い』が障害なのだろうか? それとも違いを受け入れられない社会に『障害』があるのだろうか?」なんて疑問で本書を締めくくるのは弱気すぎ。

医療モデルに従って表現すれば、あなたの存在こそが世界の「治療」なんですよ。フミノくん。

同じ揺らぎでも、わたしがシンパシーを感じつつ「ステキ!」と感嘆するのは、斉藤学ブログで紹介されている、「ジェンダーのくびき」に登場する相談者。そのひとは、「そこで選んだTG(トランスジェンダー)というのは、自分は男なんだけど『社会的な女』の立場で闘っていくんだぞ、という立場です」と言う。その後さらに揺らぐのだけれども。

*1)この経緯に関してはコメント欄のともゆき氏(本が好き!事務局)のコメントを要参照。

この記事のトラックバックURL

http://papyrusthevirus.blog43.fc2.com/tb.php/221-56ccd7a8

コメント

papyrusさん

修正ありがとうございます。
間違った部分をあえて消さないというのは、ネット的で良いと思います。
(僕は紙が長いので、つい全部修正してしまいますが)

>なお、当該プロジェクトで取り扱う書籍の献本履歴(第一回目:○○年○月○日、第二回目;○○年●月●日、というような)を残してくださると、わたしが行ったような誤解は今後防止できるかと思います。

そうですね。僕らも試行錯誤をしながらの運用なので、上記のようなご意見は貴重です。
書籍詳細のページに過去の献本履歴を出すことなら、可能ですが、そんな感じですかね?

>事務局サイドの意向は了解しました。しかし、わたしが書評を書く目的は「褒めること」ではありません。

はい。もちろん面白くなかったら無理して褒める必要はないです。「本が好き!」が褒めている書評しかなかったら、信用されなくなってしまうと思います。

>本でも人物でもものごとでも、批判的に「読む」というスタンスをとっています。心から面白い、出会えてよかったと思える本やひとやものごとと出会いたいからこそです。

批判的に読むことは、非常に大切だと思います。
ただ「批判的に書く」となると非常に責任が重くなります。批判する限りは、すべての事実関係を取材し、憶測を排除して書かないと意味がないですよね(商業出版でもブログでも)。しかし、匿名のブロガーだと取材するにも限界がありますから、真摯に批判的に書くのは、けっこう難しいと思います。

難しいから批判を書くな、というわけではなく、その難しさを常に意識して書いていただければ、と思っております。


本が好き!事務局 ともゆきさま

ご丁寧な返答ありがとうございます。

献本開始時期についてはカッコ書きで加筆し、注釈をつけてコメント欄へ誘導する形をとりました。わたしが修正するより、ともゆきさん(事務局サイド)のコメントをそのまま活かしたほうがよいと判断した結果です。また、わたしが誤解した事実は修正のしようがないので、自戒の意味を込めてそのまま残すことにします。

なお、当該プロジェクトで取り扱う書籍の献本履歴(第一回目:○○年○月○日、第二回目;○○年●月●日、というような)を残してくださると、わたしが行ったような誤解は今後防止できるかと思います。

事務局サイドの意向は了解しました。しかし、わたしが書評を書く目的は「褒めること」ではありません。本でも人物でもものごとでも、批判的に「読む」というスタンスをとっています。心から面白い、出会えてよかったと思える本やひとやものごとと出会いたいからこそです。
おはようございます。

修正していただきたかったのは、本の評価が良かったかどうかの話というより、単に発売と配本時期の問題です。

>6月には2刷されているが、上記書評プロジェクトで配本受付が開始されたのは今年の2月2日。

という「開始」という書き方だと、2月2日に最初に献本がされたことになります。正確には「2回目の配本受付が開始されたのは」と書くべきだと思います。
掲載される書評が信頼されるためには、細かい事実関係も正確であるべきです。

>「評価が良い」と「献本を追加する」、ここにどんな因果関係があるのか、事務局サイドではないわたしには分かりません。

それは、ぜひご理解いただかないと(笑)
本が好き!は、運営側と参加ブロガーさんが一体になって進めるプロジェクトですので。

クチコミで本の評判を広めるためには、「これは良い本だ」と褒めてくれる書評を増やす必要があります。
事務局では、影響力のあるブロガーが20人以上支持して、初めてヒットの最初の波が起こせるだろうと仮説を立てています(この仮説は実際にブロガーへの献本で火がついたという言われる書籍の宣伝担当さんにも支持されました。)。
なので、1タイトルにつき20冊以上の献本を行うことが目標です。しかし、各出版社共通の事情としては「1タイトルあたり5冊前後ならすぐ献本できるが、20冊は困難だ」というのがあります。
また、どのタイトルが読者に支持されるかも最初はわかりません。
そこで、最初は3冊~5冊献本していただき、評判が良かったものは、さらに5冊の献本をお願いし、それも評判がよければ、さらに5冊、という風に積み重ねていく戦術をとっています。

現状では、新潮社のガルシア・マルケスのシリーズや「旅」誌、ソフトバンククリエイティブさんの『「書ける人」になるブログ文章教室』などが、献本を重ねて波にのろうとしているところです。
(ただ、売り上げとブログの書評掲載の因果関係の証明方法が完全に確立されていないので、課題は残っているのですが)

>理由がどうあれ、献本追加の事実は、本書の(とりわけ評価の高い)書評数を増やして購買につなげたいという本プロジェクトの企画意図をありのままに示しているものと判断しています。

ここにも根本的な誤解があると思います。
1冊の本をヒットにつなげるには、最初は少部数を刷って小さな宣伝を打ち、動きがよければ、また少し部数を刷って、宣伝もちょっとずつ打つ、というのが常道です。

>また、在庫品薄の書籍が献本可能とも思えません。

ある時点の在庫数と献本数には関係がありません。
在庫は、売れ行きと増刷のタイミングによって増えたり減ったりします。献本は出版社が、その本を売ろうとしていれば、行われます。
売れる見込みがない本の献本は無駄なので行わないと思います。コストの問題もありますが、「できるだけ売れ線の本を伸ばす」というのが基本戦略ですから、そちらを献本した方がいいわけです。

>わたしとしては、いまのところプロジェクト参加者のニーズが反映されるシステムがないことが残念です。

いえいえ、たくさんありますよ!

まず、会員専用掲示板があります。こちらも自由にお使いいただいています。
最近動きがありませんが、MLも用意しています。
また、リクエスト受け付け用のメールアドレスもあります。
これらには、参加ブロガーさんから意見をときどきいただいています。

また、livedoor グルメや「映画を語ろう」のオフ会でも「本が好き!」について意見交換させていただいていますし、六本木ヒルズまで献本を返しに来てくれる方もいて、そこでもお話をうかがっています。

実際、いま現在のシステムと運営方法も、昨年8月のスタート時からユーザーさんの意見を反映しながら、随時変更してきた結果です。

いつでも、お好きな手段でご意見をください。
お待ちしています。
本が好き!事務局 ともゆきさま

>「ダブル ハッピネス」の配本は、本が好き!の実験が開始された9月から行っており

最初のお3方の書評の日付が12月だったので、もっと早い段階での配本があったのだということは知っていました。

しかし、

>最初の3冊の評価が良かったので、追加で第二弾の献本を5冊追加しました。

「評価が良い」と「献本を追加する」、ここにどんな因果関係があるのか、事務局サイドではないわたしには分かりません。理由がどうあれ、献本追加の事実は、本書の(とりわけ評価の高い)書評数を増やして購買につなげたいという本プロジェクトの企画意図をありのままに示しているものと判断しています。また、在庫品薄の書籍が献本可能とも思えません。

本プロジェクトで献本される書籍類が、出版社からの依頼なのか、事務局からの依頼なのか、卵が先か鶏が先かは関係ありません。最終的には両者のニーズが合致して献本が可能になるわけですから。

わたしとしては、いまのところプロジェクト参加者のニーズが反映されるシステムがないことが残念です。参加者の書評を通じてしか、ニーズを汲み取れないとしたら、かなり問題だと思います。わたしのように、献本に関して“腹黒い”読みをするものが出てくるわけです。
配本についての誤解について
本が好き!事務局です。

>本書は昨年5月に初版発行。6月には2刷されているが、上記書評プロジェクトで配本受付が開始されたのは今年の2月2日。予想に反して増刷分の売れ行きがよくないのかな? 

この点に関しては、誤解があので、訂正をお願いします。「ダブル ハッピネス」の配本は、本が好き!の実験が開始された9月から行っており、最初の3冊の評価が良かったので、追加で第二弾の献本を5冊追加しました。Papyrusさんが、受け取った献本は、この2回目の献本です。
papyrusさん、こんにちは。

アタシはこの本、書店で軽く立ち読みしました。
購入してないので、評価する立場にも無いのですが、流し読みしたアタシの記憶にも内容の「ユルさ」というか「軽さ」が印象に残ってます。
この「ユルさ(あるいは軽さ)」は今の若いコたち特有のものなのか?と思ってたんですが、どうやらそうでもないですね。

しかし「(男性に抱きつかれて)うわー気持ち悪い」って、・・・本当に無神経な人ですね(失笑)。
パピ、アナタの切り口、好きだわ!
映画『トランスアメリカ』。
性転換手術を控えたMtFの主人公は、ラディカルな明晰さを備えている。
ちゃんと物事を整理して受け止めることができるのに、何故に性同一性なんてバカらしいものに拘ってんの?という疑問から、この主人公に現実味を全く感じなかった。
(現実味はなくてもファンタジーとして読み解くことはできるので、映画としては問題ありません)

「性同一性障害」っていう呼び名を(自身に対してであっても他者に対してであっても)受け入れている時点で既にそれは、"権力を持たなければならない"という病なのだと思うわ。

だって「性同一性」が欲しいんでしょう?
「男」とか「女」でありたいんでしょう?
「男」とか「女」であることで、「人として」の価値を、自分で認められるんでしょう。他「人」にも認められると思うんでしょう?
「性同一性」は、そんな、自分対自分の間の政治的な権力、自分対他者の間の政治的な権力、自分対社会の間の政治的な権力、を得るための道具のひとつでしょう?
権力を得られない障害ってことでしょう?

それを政治的なものだと認識してはならないというジェンダー規範の要請の下で、身体性として苦しんでいる。
当事者ではないあたしになんか想像も出来ない、苦痛もあるでしょう。
だけど聴こえてくるのは、マジョリティになりたい、マジョリティになりたい、っていう叫び。

社会的に共有された性同一性という幻想が強迫観念になって、当事者の身体を捻じ曲げている。
そこで何故、身体のほうを、幻想へ一致させようと望むの?
何故、その「治療法」が認められているの?
この問題の原因は、その幻想が発端であることは明らか。
性同一性一致であろうが、性同一性障害であろうが、「性同一性」こそを治療すべきだわ。
だってそれは「集団の思い込みによる自己肯定」=「差別」のための幻想なんだもの。
そんなもの、い・ら・な・い。
そんなもの、み・と・め・な・い。

>自分は男なんだけど『社会的な女』の立場で闘っていくんだぞ、という立場です

政治的なものだということを、認識してはならないという、性同一性障害が成り立つ大前提を掌の上で転がしてるようなこの発言は、共感するわ。

コメントする

管理者にだけ表示を許可する

 

Template Designed by めもらんだむ RSS
special thanks: Sky RuinsDW99 : aqua_3cpl Customized Version】