このたび、
本が好き!というプロジェクトに参加しました。「読んでもいいかな?」と思える本を、書評を書くことを前提に献本されるシステムです。
その第一弾。

ダブルハッピネス
livedoor BOOKS書誌データ?/?
書評を書く
本書は昨年5月に初版発行。6月には2刷されているが、上記書評プロジェクトで配本受付が開始されたのは今年の2月2日(第一回の配本は昨年9月とのこと。
*1)。予想に反して増刷分の売れ行きがよくないのかな? だとしたら、講談社の見通しが甘かったのでしょう。内容もかなり甘いというかゆるいけど。
そんな前置きはともかくとして。
長風呂しながら約2時間で読了。おかげでこってりと垢擦りできました。
まずは出版ギョーカイ的な疑問から。
フミノくん、これはあなたが「書いた」文章ですか? それとも講談社スタイルに則って、9時間のインタビュー取材を受け、キミは質問されたことに答え、外注テープリライターがその取材テープを原稿に起こし、担当編集が作成した章構成に従ってその原稿をリライターがリライトし、キミと編集者が原稿チェックして加筆・修正したものですか?
こんな疑問を抱いたのは、「昼間は大学院生、夜はバーテンダー、休日はフェンシングのコーチ、その合間を縫って『歌舞伎町よくしよう委員会』のスタッフ。最近では朝の勉強会とボランティア掃除もするようになった」(p251)キミに、400字詰め原稿用紙に換算して約400枚にも及ぶ原稿を書く時間が、いったいどこにあるのだろうかと思ったからだ。
どちらの形式にせよ、キミの名前で刊行した本なのだから、言説の全責任はキミに属するものとみなします。
にしても、ずいぶんとジェンダー・センシティビティの低い書であると感じた。わたしのチェックが厳しすぎるのか、キミの意識が甘いからなのか。「性について学問的に追究していく必要性を感じ、大学院進学を決意した」(p138)キミは、いまおそらくジェンダー・スタディーズやセクシュアリティ研究を行っているのだろうが、たかだか2年間の修士課程で自己に内在する偏見や思い込みや刷り込みが払拭されるものでもないし、早稲田のジェンダー・スタディーズのレベルにも問題があるのかもしれないので、その点はハンディを差し上げておこうかと。
……にしても(くどい)。
キミが「性同一性障害」者の代表だとは思わない。思わないけれども、どうしても「『性同一性障害』って、『<フツー>になりたい症候群』なんだなぁ」と思わずにはいられない。つまり、ヘテロセクシュアルという性別二元制ゲームに<フツー>に参入したいひとの一人なんだってこと。
ここで、ジェンダー/セクシュアリティに関する疑問。
キミは本書p209〜p211に、「
『性の用語集』
を参考にしつつ」、「おかま」「おなべ」「ニューハーフ」「ホモ」「ゲイ」「レズビアン」「バイ(バイセクシュアル)」「ノンケ」の解説をしているけれども、「トランスジェンダー」や「トランスセクシュアル」の項目がないのはなぜですか?
本書には、「FTM(Female To Male)」「MTF(Male To Female)」という言葉はほんの少し登場するけれども、上記2つの言葉は一度も登場しない。「性同一性障害」は頻出するのに、これらが出てこないのはなぜ?
しかも、「レズビアン」についての解説が気に喰わねぇ。「『ビアン』と略すのはいいが『レズ』と略すと蔑称になる」(p210)って言うけど、あたしゃ「ビアン」なんて腑抜けた略語は受け入れておりません。
だいたい、参考にしている『性の用語集』も講談社現代新書。つまり「身内」の本なんだよね。「27の性別」という見出しではじまる項目を執筆するにあたって、リライターが担当編集者に「なんかいい参考資料ないですかね?」なんて問い合わせた光景が目に浮かんでしまったりして。キミが書いたにしても、いかにも「異性愛者」の「オジサン」が「他人事」の感覚で耳学問的に編纂した本を参照するなんて安直すぎやしませんか? ちょっと調べればネットでも優れたセクシュアリティ用語集がたくさんヒットするのに(たとえば、「セクシュアリティ用語集」でgoogle検索してトップに登場する(2007年2月12日現在)のは
これ)。
続いて、「性同一性障害」についての説明部分。
ようするに性同一性障害とは、心の性別と体の性別が噛み合わずに苦悩している状態のことである。気持ちは「男」なのに体は「女」だったり、またはその逆だったりということだ。原因については有力な説がある。受精直後に行われる性別決定のホルモンシャワー時のトラブルによるというものだ。(p67)
うわー、こんな説明になんのためらいもなく乗っかっちゃうなんて。「噛み合わずに苦悩している」ってことは、「身体的性別(sex)」と「社会的心理的性別(gender)」は「一致してしかるべきもの」という医療行政規範を受け入れているわけでしょ。そこがヘテロセクシュアルと性同一性障害者の共通点なんだな。
下記は、フミノくんがお母さんにカムアウトした場面の引用。
「何がどうであれ、フミノはフミノ。私の子どもに変わりはない。それよりも、ちゃんと産んであげられなくてごめんね。そのせいで、どれだけ辛い思いをさせてるのかと思うと、本当に……」
おかんも泣いていたが僕も泣いた。止めようと思えば思うほど涙は止まらなかった。その後の会話はおたがい言葉になっていなかったが、気持ちだけはひしひしと伝わってきた。
「あれ以来、いろいろ調べてみたんだけど……それって生まれてくる以前の問題なのよね。そうだとしたら、私たちに責任があるわけだし、一概にあなたを責められない。何がどうであれ、あなたが私の子どもであることに変わりはないわ。ごめんね。本当にごめんね……」
「ありがとう……」(p85)
フツーの感覚で読めば感動クライマックスな場面なんだろうけど、わたしにはとても「気持ちの悪い」シーンだった。
フミノくんがお母さんにカムアウトしたのは高3のときだったが、中3のときに当時つき合っていた彼女と部屋でエッチしているところをお母さんに目撃されていた。その後、お母さんは、「あんたはおかしい」「女子校に入れたのが間違いだったのよ」「きっと私がボーイッシュに育てたのがいけなかったのよ……」「カウンセリングにいきなさい。あなたは絶対おかしいよ」などとフミノくんに言ったのだ。フミノくんが「性同一性障害だと思うんだ」と言っても聞き入れなかった。
その後、性同一性障害について調べたお母さんは、ようやくフミノくんを受け入れる。しかしさー、性同一性障害なら受け入れられて、レズビアンだったら「おかしい」ってーのはどうなのよ? ここにも両者のあいだに流れる「ヘテロセクシュアリティという偽善」を感じるのよね。
それに、「ごめんね」ってなんだ? 「ちゃんと産んであげられなくて」ってなんだ? それに対してフミノくんもなぜ「ありがとう」なんて言うんだ? キミはお母さんの謝罪を求めていたのか? お母さん、あなたはなぜ「あなたを産んだことを誇りに思う」って言えないの? 何に対して謝っているの? ここらへん、「障害児」を産んだ母親にありがちなメンタリティを感じてしまう。
風呂で体を洗う時には、自分にくっついている「オッパイ」という気持ち悪い物体に触らなくてはならない。(p93)
↑自分の「オッパイ」は「気持ちの悪い物体」でも、他者の「オッパイ」は欲情と愛撫の対象なんですね。
「とにかくかっこよく生きようぜ!」ということで、「男を磨こう計画」でも立てるかとなり、(p101〜p102)
↑大学ではじめて男友だちができて意気投合する場面。男、磨かなくていいです。むしろお友だちにもあなたにも、「男らしさという病」の「治療」をおすすめしたいところです。
男に「男」として認められたのが嬉しかったのだ。(p105)
↑男友だちに性同一性障害であることをカムアウトした場面。「男」として認められることがそんなに嬉しいんですか。仲間に受け入れられたらそれで安心ですか。他者の基準をクリアして得られる自己肯定感って、脆いものだと思いますが。
フミノくんが性同一性障害の代表だとは思わないと先に述べたが、「僕の体はたしかに女だけど、僕の脳みそは男なんだ」(p168)と宣言しているので、<彼>を男性的メンタリティの代表とみなせば、これはミソジニー発言とホモソーシャル万歳発言がてんこ盛りの書である。自分の体が「恥ずかしい」(p116, p178)とか、「やっぱり僕の性別が『男』じゃないのがいけないのか?」(p63)とか、「ただ僕の体が女体というだけで、彼女に不快な思いをさせてしまっていることに腹がたった」(p109)とか、相手はフミノくんが男だろうが女だろうが関係ないと言っているのに、本人だけが気にしてるんだよね。「女の子が好きだから男っぽくしているわけでもない」(p35)ってことは、女の子を性的に求めることはキミにとって、自分の男性性を補完するための道具ってことじゃん? はい、これで「性欲は生殖に向かう本能である」なんて言い訳はできなくなりますね、男性諸君。
極めつけはセックスに関するくだり。
何がいちばん苦痛なのか?
気色悪い自分のオッパイの存在もそうだが、やはり、いちばん辛いのはペニスがないということだろう。彼女たちの多くは「ペニスに頼った男の勝手なセックスなんかより全然いい」と言ってくれた。しかしそうは言われても、やはりペニスがなければ満足できないのではないかと思ってしまう。立たなくなってしまうという男性の機能障害は、男としてだけでなく人間としての自信も失ってしまうほどショックなことだと聞くが、もともとペニスのない僕に自信なんてものはかけらもない。自分の男としてのアイデンティティなんてズタズタだし、存在自体がコンプレックスなのである。(p180)
ね? 典型的な男性メンタリティでしょ? 「ペニスがなければ満足できない」のはフミノくん自身であって、彼女たちではないですから。自分の欲望を彼女たちの欲望にすり替えるのはおよしなさい。そして、ペニスを用いてセックスすることが男性アイデンティティの確認になるらしいので、やはり女性はヘテロ男性の自惚れと独りよがりを補完する存在でしかないんですね。
また、フミノくんは、「気持ち悪いとかおかしいとか思われるのが何よりも恐く」(p34)と書いているにもかかわらず、そのすぐあとのくだりでこう書いている。
今でこそ多少状況が変わってきているが、まだまだ同性愛は「ヘンタイ」として語られることが少なくない。僕も当時、女の子を好きになること(僕としては異性愛なのだが周りからは同性愛として見られてしまう)はおかしいことであり、いけないことだと思っていた。かといって男性を好きになるという選択肢は、どう考えても僕の中にはなかった。僕にとっては男性を好きになることこそ「同性愛」だったのだ。
男性に抱きつかれたりすると、「うわ、気持ち悪い〜。僕その気(け)はないんで……」と思ってしまうのである。もちろん同性愛を否定するつもりはない。ただ、僕の場合は違うのだ。(p34〜p35)
自分が「気持ち悪い」と思われるのは恐れているのに、男性に抱きつかれると脊髄反射的に「気持ち悪い」と思ってしまうんですね。素直といえば素直だけれど、自分が排除される言説には過剰反応しても、他者を排除する言説にはすこぶる鈍感、無神経。ちなみにわたしはレズビアンですが、性別にかかわりなくハグしたいひととはハグするし、性別にかかわりなくハグしたくないひとに勝手に抱きつかれたり腕を組まれたりすり寄ってこられるのは遠慮したいです。
ですから、わたしもフミノくんを見習って、フミノくんみたいなひとを「うわ、気持ち悪い〜」と思いはしても、否定はしないことにします。でも、「気持ち悪い〜」と感じたり言葉にしたりすること自体が、他者の欲望を否定し差別することになるのよね。「気持ち悪い」とか「その気(け)はないんで」という曖昧な、それこそ「気持ち悪い」表現ではなく、「残念ながら、あなたとわたしの欲望とは相容れません。あしからず」と明確かつ丁寧に断ったほうがいいと思う今日このごろ(伏見憲明
『欲望問題―人は差別をなくすためだけに生きるのではない』
を読んでの自己省察より)。
「ひとを好きになるのに男も女も関係ない」という言説で同性愛者を擁護する異性愛者は掃いて捨てるほどいるんですが、この言説にマストアイテムとしてもれなくついてくるのが「自分は違う(同性愛者じゃない)けどね」という余計なエクスキューズ的カムアウトだ。「男も女も関係ない」と“本気”で思っているなら、「自分が同性愛者だと思われてもいい」っていうふうにはならないのかしら。ならないみたいね。ちなみにわたしは異性愛者だなんて思われたくないので、いつでもどこでも誰にでも挨拶代わりに「レズビアンです」と言いますが。
自分との違いを「気持ち悪い〜」としか表現できないボキャブラリー貧者から、まずはフミノくん自身が卒業できることを祈っています。
唯一の救いだとわたしが感じるのは、「わざわざ何度も病院に通い、お金を払ってまで、『はい、あなたは間違いなく性同一性障害です』というお墨付きをもらうことに、なんの意味があるのだろうか?」(p246)という疑問を呈している部分。そういう揺らぎは大切。貴重。
でもね、「僕は最後に問いたい。生まれながらの『違い』が障害なのだろうか? それとも違いを受け入れられない社会に『障害』があるのだろうか?」なんて疑問で本書を締めくくるのは弱気すぎ。
医療モデルに従って表現すれば、あなたの存在こそが世界の「治療」なんですよ。フミノくん。
同じ揺らぎでも、わたしがシンパシーを感じつつ「ステキ!」と感嘆するのは、
斉藤学ブログで紹介されている、「ジェンダーのくびき」に登場する相談者。そのひとは、「そこで選んだTG(トランスジェンダー)というのは、自分は男なんだけど『社会的な女』の立場で闘っていくんだぞ、という立場です」と言う。その後さらに揺らぐのだけれども。
*1)この経緯に関してはコメント欄のともゆき氏(本が好き!事務局)のコメントを要参照。