唯一本当に必要なのは、絶望かもしれない
1994年発表、邦訳(単行本)は2001年に出版。
わたしが初めて読んだオースター作品は、彼のデビュー作『孤独の発明』
82年のデビュー以来、オースターがこれまでに出版したのはおよそ20作品(映画のシナリオは除く)。決して多作の作家ではない。ほぼ月イチペースで出版“させられ”、薄利多売の徒と化した日本の売れっ子作家たちとはえらい違いだ。年1作のペースでじっくりと執筆をすすめ、発表した作品が確実に評価される、オースターの執筆環境がじつに羨ましい。彼はデビュー前に父の莫大な遺産を受け継いでいるので、あくせくと文章を切り売りする必要はなかったが、環境に恵まれていることと才能が発揮できることはまったく別物だ。食べるのに苦労しない富裕層から必ずしも世紀の大作家が誕生するとは限らないのだから。
さて、本作品について。「ミスター・ヴァーティゴ」のヴァーティゴ(vertigo)とは、めまいの意。タイトルになっているのに、なかなかその当人が現れない。やっと登場したのは、全体の3分の2をすぎたあたり。なるほど、そういうことだったのねと納得しつつ、ヴァーティゴ氏の登場を後半まで引っ張るオースターのストーリーテリングのうまさに脱帽。
さわりのあらすじはこんな感じ。
セントルイスで最下層の生活をしていたやさぐれ少年ウォルトが、「私と一緒に来たら、空を飛べるようにしてやるぞ」といううさん臭い紳士イェフーディに、半信半疑ながらもつき従って苦しい修行をおこない、実際イェフーディ師匠の言う通りになる。
だが、これは物語の序盤でしかない。『ハリー・ポッター』(あえてリンクは張らない)のダーク版かと思いきや、ファンタジーと呼ぶには泥臭く、地を這い泥にまみれる日々が続く。空を飛ぶために三十三段階の血を吐くような修行を重ね、ようやく手に入れた栄光もまたたく間に失ってしまう。その挫折と絶望のなかにこそ、次に顔を上げて歩きはじめるための大切ななにかが存在している。そして、栄光と成功とは、結果ではなくプロセスにこそあるのだと示唆する。
一人称形式の物語はそのまま自伝になりうる。自伝なら、起こった一連の出来事のあいだに一見相関関係も一貫性もなさそうなことや、何の脈絡も目的意識もなく人生を進めていくことに疑問を挟む余地もない。そのように生きてしまったことに理屈を求めてもしかたがない。しかし、これは自伝の形をとった小説であり、「自伝だから何でもあり」という無節操さに支配されているわけではなく、ちょっとした伏線が後からじわりと効いていたりして心地よい。
物語を直線方向に推し進めることを良しとする「起承転結」規範にうんざりしているわたしとしては、実人生を模した紆余曲折をリアリティーたっぷりに描く本作品がとても好ましい。ストーリー構成もさることながら、要所要所の描写にもキラリと光る箴言がたくさんある。
たとえば、以下は、ある年の秋に異常気象に見舞われて作物が全滅し食糧不足と空腹にあえぎ、イェフーディ師匠のはからいによってその危機を脱したあとの描写。
十日も経つと、たっぷり食べられて当たり前という気になっていたし、月末にはもう、ひもじかった日々を思い出すのも難しくなっていた。欠乏とはそういうものだ。何かが欠けていると、昼も夜もそれが欲しくてたまらない。ところがいったん夢が叶って、欲しくて仕方なかったものが両手に押し込まれてみると、その魅力はいっぺんに薄れてくる。別の欠乏が顔を出し、ほかの欲望が頭をもたげ、ふと気づけばまた元の木阿弥になっている。俺の読み書きレッスンもしかり。食糧棚にぎっしり詰まった新たなる豊穣もしかり。それらが手に入って、すべてが変わると思ったのに、結局みんな形でしかなかった。どの欲求も、俺が本当に欲しかったひとつのものへの欲求の代用でしかなかった。そしてそのたったひとつのものだけは、依然として手に届かないままだった。(p82〜83)
空を飛べるようになれば巨万の富が得られる、そうしたら私とお前とで山分けだ、とイェフーディ師匠にそそのかされて始めた浮遊修行だったが、いつしかウォルトは、空を飛ぶことよりも師匠の愛と信頼を渇望するようになる。そして、師匠に捨てられたのだと絶望の淵に立たされ、自分が「からっぽ」になったとき、彼は我知らず宙に浮いていたのだった。捨てられたと思ったのはウォルトのとんだ早合点だったのだが。
この師匠には老獪で狡猾な部分もあり、ウォルトの視点を通して、最初はただの「ひとさらい」かと思わせるリスキーな雰囲気がある。しかし、愛情深く、親身で、悲しいときには人目もはばからずに泣くし、不安なときにはがっつり落ち込んで石のようになるし、ウォルトが許しがたいことをしたときには怒髪天をつく勢いで激怒するし、惚れた女とはセックスの悦びに身を預けるし、こんなふうにウォルトに語りかけることもある。
俺たちも巡業のあいだに、絶望した人々にずいぶん出くわした。ああいう人たちを見下しちゃいけない、と師匠は俺に諭した。あの人たちこそウォルト・ザ・ワンダーボーイを必要としているんだ、その責任を忘れちゃいかんぞ、と師匠は言った。いままで聖者や預言者にしかできなかったことを十二歳の子供がやってのけるのを見るのは、言ってみれば天からの一撃のようなものだ。だから俺の芸は、苦しんでいる何千もの人々の士気を高めることができる、というのだ。(p182)
最近、一条ゆかりの『プライド(6)』
しかしまぁ、漫画と小説の違いのせいなのか、ウォルトの人生には、これでもかと読者に見せつけるような厭味ったらしくドラマティックな悲壮感はあまり感じられない。描写には抑制が利いており、それは彼が浮遊術を会得すべく筆舌に尽くしがたい困難を乗り越えたために身についたタフネスのおかげかもしれない。それでも、これまでの苦難にさらに輪をかけたような苦難が彼を次々と襲う。ウォルトはそのたびにズタズタに傷つくが、ほどなくして立ち直る。決して苦しみや悲しみを忘れたわけではなく、絶望は彼のなかにしっかりと刻みつけられている。まるで彼はそれらの絶望に支えられて生きているとしか思えないのだ。
物語の最後に、ウォルトはこう綴る。
ようやく初めて宙に浮いたとき、それはべつに師匠に教わったことのおかげじゃなかった。冷たい台所の床で、俺は一人でやってのけだのだ。長いあいだしくしく泣いて、絶望に浸っていた末に、魂が体の外に飛び出ていき、もう自分が誰なのか意識もなくしていたとき、初めて床から浮かび上がったのだ。ひょっとすると、唯一本当に必要だったのは、絶望だったのかもしれない。そうだとすれば、師匠が俺に課した肉体的な試練は、ただの見せかけ、どこかへ向かって進んでいると錯覚させるための目くらましということになる。(中略)でも、師匠のやり方が唯一の道じゃないとしたら? もしほかにもっと簡単な、もっと手っ取り早い方法、体はすっとばしてすぐさま内側からはじめる手段があるとしたら? そしたらどうなる?
胸の奥底で、俺は信じている。地面から身を浮かせて宙を漂うのに、何も特別な才能は要らないと。人はみな、男も女も子供も、その力を内に持っているのだ。こつこつ根(こん)つめて頑張っていれば、いずれは誰でも、俺がウォルト・ザ・ワンダーボーイとして成しとげたことを成しとげられるはずだ。まずは自分を捨てる、それを学ばなくてはならない。それが第一歩であって、あとのことはすべてそこから出てくる。(p410〜p411)
余談。オースター翻訳本の最新刊『ティンブクトゥ』

ミスター・ヴァーティゴ
- 著:ポール オースター
- 出版社:新潮社
- 定価:740円
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コメント
- TBさせていただきました。
行き着く先が見えないストーリー。
でも、読み終えて、自分のことのようにウォルトの人生に思いを馳せてしまいました。
