自分語りのようでいて自分語りではない
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岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』

著者の岡田利規はソロ・ユニット『チェルフィッチュ』の主宰者。劇作家であり演出家。生で舞台を観たことはないけれど、以前、演劇評論家の内野儀さんがおこなった現代日本演劇に関するパネル講演で、チェルフィッチュの舞台映像をダイジェストで観たことはある。この作品は、2005年岸田戯曲賞を受賞した「三月の5日間」を小説化したもの。

既成のドラマトゥルギーに対するアンチ、嫌悪感、違和感。そういうものが岡田くんにはあるのだろう。彼はわたしとほぼ同世代。80年代の小劇場ブームが尻すぼみになるころに演劇に関わりはじめたわたしは、いわゆる小劇場演劇のお約束的なドラマトゥルギーに辟易とさせられたクチだ。ひとつのパラダイムが隆盛を極めれば、そのあとには必ずアンチテーゼが提示される。彼もわたしもそんな端境期にいたのかもしれない。80年代の小劇場ブームだって70年代の演劇の政治化みたいなものに対するアンチだったのだろうし。

観れば観るほど演劇が嫌いになっていった。やたらと俳優が長い独白をし、なんでもセリフで説明してしまう。無意味に衝撃的な音楽や照明をほどこし、ロスコーで舞台を煙らせてみても、結局「なにも起こらない」のでイライラするばかり。うろたえているシチュエーションにあるはずの人物が、ひとつもとちらずにスラスラと内面告白をするのはどう考えても「不自然」だが、「うまい俳優はセリフをとちらないもの」というお約束を自明視している観客にしてみれば、とちる俳優のほうが「不自然」で、舞台の進行を中断する目障りな存在らしい。また、たとえば相手役が汗をダラダラかこうが鼻水を垂らそうがおかまいなしでじっと相手のセリフに聞き入っている俳優というのも、そしてそういう進行状況をよしとする演出や演劇の方法論もわたしには理解しがたい。「すごい汗かいてるね」とか「鼻出てるよ」とか指摘するのがはばかられるなら、せめて黙ってハンカチくらい差し出してやれよ、と思ったりするのだ。

つまり、演劇ではリアルな身体性が無視されている。この場面ではこの俳優は汗をかいたり鼻水を垂らしたりする設定ではない、ということになっていても、リアルな身体は照明や会場の熱気や本人の緊張や高ぶりによってさまざまな反応を示す。身体は人為的な設定からつねにはみ出しつづける。はみ出さずに設定通り演じられる俳優が優秀なのかもしれないが、それでは単なる役者マシーンであり、演出家や劇作家の都合のよい代弁者でしかないのではないか。

要するに、汗かいたり鼻が垂れたりトイレに行きたくなったり頭がかゆくなったりするベタな身体は見なかったこと、存在しなかったこととしてスルーし、人間の内面告白的なものこそがリアルなのだというような持っていきかた、もっと言えば、「人間には確たる内面がある」みたいな演劇的(文学的)なお約束に、わたしは乗り切れないのだ。

岡田くんは、そのお約束を反故にしたかったのだと思う。というか、「告白すべき内面などひとは持っていない」ということを言いたいのではないかと思う。

本書には「三月の5日間」「わたしの場所の複数」の短編2編がおさめられているが、どちらの主要人物たちも、特に読者が感情移入したくなるような、愛すべき「魅力的」な個性を持っているわけではない。どこにでもいそうなだれでもよさそうな、適度にいい加減で鈍感で適度にナイーブな「フツー」のひとびとだ。

「三月の5日間」では、語りの形式が3人称になったり、「僕」の1人称になったり、「私」の1人称になったりするのだが、いずれにしても人物の「内面」になぞ肉薄しない。3人称の語りはけっして(なんでもご存知の)「神」の視点ではなく、人物たちのちょっと上部に漂っている浮遊霊のような感じがする。「僕」「私」の1人称にしても、「聴覚」「視覚」「嗅覚」「味覚」「触覚」の五感を通じた記述が多く、それをさらに掘り下げた「内面」などというものは見せない。いや、見せないのではなく、彼らは五感の束にすぎないのであって、彼らに「内面」があるとするならば、それは五感の束という「表面」がありそうに見せる幻想、つまり「虚構」なのだ。

人物たちのボキャブラリーは実に「貧しい」。それは著者自身のボキャブラリーの貧しさが反映されているということではない。著者自身のメタフィジックスを排し、文学的お約束を愛するひとたちにとっての「ありうべき内面」を排し、「表面」のみの描写に徹することで、岡田くんは演劇と文学に相通じる、「リアルな身体感覚」を無視して「内面」を重視するという既存のパラダイムを覆したかったのではないだろうか。この戯曲を小説化する際の彼の作家的ドライブはこのへんにあるのではないか。

演劇と文学の両方に共通するお約束になじみきったひとたちにとっては、「なにが言いたいのかさっぱりわからない小説」ってことになるだろうし、「こ〜んなに内面が空っぽな人物たちのお話なんかつまんない」とか、「ぜんぜんリアルじゃない(嘘くさい)」って感じられるんじゃないかと思う。けど、観客(読者)を意識して構想された人物の「言いたいこと」そのものが虚構なんだよ、苦悩したり葛藤したりドラマチックなトラブルに直面している身体が立て板に水のごとくスラスラしゃべったり物語の進行に都合よく行動しちゃったりすることのほうがよっぽど嘘じゃん、リアルな存在はいちいちだれかに自分の言動の一貫性や目的や動機を説明しようと考えたりしないんだよ、考えるまえに感じたり行動したりしちゃって、考えるというメタフィジックな回路なんてすっ飛ばしちゃうものなんだよ、そんな回路「フツー」のひとたちはそうそうオンにならないし。あんた自身の日常を振り返ってみろよ、と、岡田くんが言っているような気がしてならない。な〜んて、彼を代弁するふりして自己主張してみた姑息なわたしであった。

ひとつだけネタバレ的な補足をすると、「三月の5日間」ではイラク空爆のまっただ中に日本人の若い男女がラブホでセックスしまくるのだが、「戦争」と「セックス」にメタフィジックな関連性を見出そうとすることにあまり意義があるとは思えない。かといって、両者がまるっきり分断されているわけでもない。たまたまいったとあるライブハウスのパフォーマンスでイラク空爆が話題にのぼり、たまたまその場に居合わせて意気投合した二人が示した身体的反応がセックスやりまくりだったということで、それ以上でもそれ以下でもない(やりまくりもそのうち疲れて飽きてグダグダになるんだけど、そこらへんもリアルだな〜と思う)。

団塊の世代的な発想なら、意気投合したら「イラク問題について話し合おうよ」なんて一見有意義そうなアクションを起こすのだろうけど、その実本音では(身体的には)ヤリたくてヤリたくてしょーがなくて結局ヤッちゃったりして、でも「イラク問題についての有意義な対話」という錦の御旗によって、ヒリヒリするような欲情はもののついでだったり弾みだったりおまけ扱いされたりするんだろうな。有意義そうな会話の糸口もしょせん口説き文句の前口上にすぎないんだよね。あ〜、嘘くさいったらありゃしない。回りくどいこと言ってないで、ヤリたいならヤリたいって最初から言えよ、みたいな。

ありもしない「内面」をさぐるのに懸命になって、身体のリアルさに鈍感になってしまう頭でっかちな文学性、捏造された「内面」をリアルなものとして重視することの虚構性を突きつけても、いまはまだなんの引っかかりもなくスルーされるか酷評されるのがオチだろうね。もっと酷評されることを願います。それだけ既存のドラマトゥギーに頑迷にしがみついているひとたちが多いってことだろうから。アンチの先鋒は叩かれてなんぼです。


わたしたちに許された特別な時間の終わり
  • 著:岡田利規
  • 出版社:新潮社
  • 定価:1365円
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Edit / 2007.03.25 18:07:59 / Comment: 0 / TrackBack: 0 / PageTop↑
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