やっぱり100文字ではわかったような気にすらならない
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鷲田小彌太『100文字でわかる哲学』

不肖papyrus、学部は哲学専攻でありました。が、なぜか哲学の入門書をひもとくたびに挫折するというパラドキシカルな経験を積み重ねてまいりました。似たような挫折を性懲りもなく繰り返してきた結果ようやくわかってきたのは、わたしが求めているもの(需要)と、いわゆる入門書が提供するもの(供給)がまったく噛み合っていないんだなってことです。

わたしは暮らしのなかでしばしば感じる引っかかりとか違和感とか生きがたさなんかと取り組むためのヒントがほしかったんだけど、入門書はといえば、暗記や記憶用の、言い換えれば「教養」としての知のクリッピング作業をすすめてくるわけです。別にこちらは哲学系のクイズ王目指してるわけじゃないんですけどね。だから、ちっともピンとこないし、「で?」「だから?」ってな感じでウンザリしてきて、しまいには入門書を放り出してしまう。

若いころは殊勝にも、「途中で嫌になってしまうということは、わたしがバカだからなんだろうな。向いてないんだろうな」なんて思ったりもしたんですが、年齢を重ねてズル賢くなっていくうちに、「いや、わたしがバカで才能がないせいではない。入門書の書き手にこそ哲学の才能もセンスもないんだよこの印税ドロボーが!」と思うようになりました。

というのも、数は少なくても素晴らしい哲学思想指南書にいくつか出会ったからです(たとえば、いま思い出せるかぎりではこれとかこれとかこれとかこれ)。このひとたちは個人的な生きにくさを根気よく追究して、その諦めの悪さ、ものわかりの悪さのおかげで研究生活がライフワークになっているんだなと思いました。というか、そういう個人的なエピソードをど真ん中にして哲学思想のありかたを伝えてくれるところがありがたい(学術書のお約束として「著者個人のプライベートエリアは開陳しない」という奇妙な暗黙の了解があるらしいのでね)。でも、こういう本はなかなか日の目を見ない。ひじょうに残念なことです。

深く掘り下げたり、お腹の底にストンと落ちつくように納得がいったりすることと、羅列された情報を記憶することはぜんぜん別物です。以前別の書評で、パフォーマティヴperformativeとコンスタティヴconstativeという言語の二つの性質について書きましたが、わたしは哲学というある意味特殊な言語活動をパフォーマティヴなものととらえているんだけれど、いわゆる入門書とか、その書き手である日本の「哲学研究者」たちは、どうやらコンスタティヴなものとして哲学を読者に提示しているようなのです(だからお前らは「哲学者」ではなくて哲学研究者や哲学史家なんだよ、と毒づいてみる)。コンスタティヴに捉えているからこそ、「これが答えですよ」と自信満々で提示するのでしょう。

ご多分に漏れず、今回とりあげた本書も同じ。古代ギリシア、中世、近代、現代、そして東洋の哲学者たちの思想をそれぞれ100字ぴったりでまとめるという芸当を見せてくれましたが、「だから、なに?」って感じ。これまでの哲学入門書とちょっと違うのは、東洋のメンバーが参入したことと、フロイト&ユングという精神分析家を思想家としてエントリーしたことかな。でも、だったらラカンも入れなきゃアカンでしょと思うし、現代西洋哲学と銘打ちながらフーコーで止まってて、ドゥルーズもガタリもデリダも出てこない。ソシュールもスルーされてる。また、フェミニズムもポストコロニアリズムも出てきやしない。まったくもってPolitical Correctnessに反する本です。

そりゃ200ページというタイトな新書サイズではいろいろと限界があるでしょう。現代に迫れば迫るほど100字でまとめられっこない思想体系の複雑さや緻密さと衝突して、「100字でまとめる」という主旨が破綻しかねないだろうしね。

わかりやすさを求めることも、その求めに応じてわかりやすいものを提供することも、どちらもじつはとても危険なこと。わかりやすさは落ちつきや安心感を得られやすいけれども、単純化するということは現実の複雑さを削ぎ落とすことだ。世のなかそんなにはっきり白黒つけられるものじゃないのに、不安を取り除くために世界の大半を見ないことにして単純な解答を信じ込むなんて、それが哲学の目的/役割だと思われちゃかなわない。

言葉がかかわる世界のありかたは、大雑把に分けると二通り。ひとつは、コンセンサスのうえに建物を建てていく、コンセンサスを土台にして積み上げていく世界。政治・経済・司法などはこちらに属する。もうひとつは、コンセンサスそのもののしたに潜っていく、建物の土台となっているコンセンサスを疑っていく世界。世界の前提を突き崩す。哲学・思想などはこちらに属する。

哲学における言語活動は、コンセンサスを疑って自分自身の足元をぐらつかせるというとても危ういパフォーマティヴィティを持っている。そのことに耐えられない(そういうセンスを持たない)エセ哲学研究者たちは、歴史上の思想家たちの言説をコンスタティヴになぞるばかりで、答えにならない答えを提示して「センセイ」のふりをする(伝言者、代弁者でしかないのに)。悩める読者たちのためではなく、自己保身のためだ。

答えなんて見つからないですよ(見つける気がないのとは違うよ)。だからといって探すことを諦めはしないし、「100字」にまとめたスマートな「答え」にも満足しない。探しているのは答えではなく、問いなんだよな。問いの立てかたを変えてブラッシュアップすること。中身のない100字足らずの解説では、good questionは生まれません。

ひとつだけ役に立ったのは、思想史の変遷と自分の個人史の変遷がほぼ同じ道をたどっていると確認できたこと。自分自身を棚に上げて「世界はなにでできているか?」とか「神について」「理性について」とかを頭でっかちに考える時期を経て、「精神」やら「実存」という切り口で自分に矛先を向けはじめ、ようやく「身体」まで追いついてきた。いまのわたしも「精神」「一貫性」「統一」より「身体」「不連続性」「無脈絡の脈絡」に関心が高い。それは医学的生物学的身体ではなくて、やっぱり言語的身体なのかもしれないけれど。


100文字でわかる哲学
  • 著:鷲田小彌太
  • 出版社:KKベストセラーズ
  • 定価:720円
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Edit / 2007.03.28 06:43:26 / Comment: 3 / TrackBack: 0 / PageTop↑
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