「勝手にやっておれ」というなら、勝手にやれる条件を整えさせろ!
愛の反対は憎しみではなく、無関心だ。文化、教養の反対は無知ではなく、無関心だ。平和の反対は平和と戦争への無関心だ。
Elie Wiesel(アウシュビッツ収容所から生還した作家)
2つ前のエントリで、GIDに関する池田清彦の所感を紹介した。まったくもってその通りだと思ったのだが、『欲望問題』出版記念プロジェクトでは、こんなことを述べている。
私自身はホモにもゲイにもレズにもフェミニズムにも何の興味もないし、勝手にやっておれと思うだけだ。様々な性的嗜好をもつ人が存在するのは事実であるし、それを否定する根拠は全くない。他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。と同時に、どんな人も自分の感性や嗜好を他人に押しつける権利や、他人に理解してもらう権利はない。
「勝手にやって」いられるのなら、だれも抵抗運動なんか起さない。尾辻かな子がレズビアンをカムアウトして政界に出ることもない。池田は「他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である」というが、むしろ非規範的性指向の持ち主のほうこそ、「恣意性の権利を侵食」されている現状だから、それに抵抗しているのである。
しかも「他人に押しつける」とか「他人に理解してもらう」とかいう意味での「権利」がほしいのではない(へーえ池田は「押しつけられる」って感じるのかナイーブだなあw)。「お前もホモになれ、レズになれ」と言っているわけではないし、「理解」なんぞいらないので、非規範的性指向の持ち主たちが安心して暮らせる「権利」をよこせ、と言っているのである。
だが、池田が言うように、マジョリティは「多数派の情緒」を押しつけようとする。それに対して論理や理屈で対抗しても「情緒の逆撫で」をするだけらしいので、運動側としては不本意ながらマジョリティの情緒に訴える方策をとっているまでのこと。なのに池田は、まるで運動側が自主的に情緒的手法を取っているかのように批判する。
池田は友人でもある中島義道の著書を取り上げて、秋葉原や明大前などの騒音、醜い景観に対して腹を立てるセンシティヴな中島についてこう言う。
私は中島の感性や嗜好を理解できないし、理解するつもりもない。ただそういう人がいることは承認する。だから、中島の感性や嗜好を非難するつもりも全くない。勝手にやっておれと思うだけだ。私は、差別されていると感じるマイノリティーに対するマジョリティーの態度として、これ以上の方法を思いつかない。
あらかたの事柄に関してリベラルでも、こと性に関しては、頭が固いというか、わかってないかたがたが多数いらっしゃる。斎藤美奈子もたいがいのことについてはうなずきながら読めるが、「性」や「AC」「依存」の問題に関しては鈍感で、読んでて腹がたつ。となると、どの分野に関しても浅いレベルでの印象論しか書いてないんじゃないかコイツは、と思えてくる。
性は「趣味」でも「嗜好」でもない。ライフスタイルなのだ。だから政治的問題なのだ。なのに、リベラルぶったかたがたは「個人の自由」とかいって、性の問題を矮小化してクローゼットに閉じ込めたがる。実際には「好きにできる」だけの社会的条件が整っていないのに、「好きにやっておれ」と自己責任論を言い立て、欲望の利害調整を対等に行えないアンフェアな構造そのものから目を背けさせる。
もしもの話。生殖が同性間でないと不可能で、同性婚のみが認められており、異性愛は「子孫を残さない不毛な性愛」とされて見えない差別を受けていたとしたら、それで同性愛者たちから「勝手にやっておれ」と口先だけで「承認」されたらどうなの? 「趣味」「嗜好」の問題としておとなしく一元化して、日陰でこそこそやっているんですか池田さん。新宿あたりに小さなコミュニティつくってさ。毎夏パレードなんかやっちゃったりしてさ。
性が個人的な「趣味」や「嗜好」におさまるのは、ヘテロだからですよ。GIDについてはまっとうなご意見を述べることができるのに、同性愛となるととたんに理論的に後退するのはどういうわけですかね。べつにあなたが「ヘテロというクローゼット」におさまっているぶんにはかまいませんけど、ヘテロの性的嗜好とノン・ヘテロの性的指向を一緒にしないでくださいっての。
「好きにやっておれ」ってのは、ヘテロもノン・ヘテロも対等に欲望の利害調整ができる社会状況になってから言ってくださいね。
ちなみにわたしは中島義道の言い分はよくわかる。公共交通機関の過剰なアナウンス、商店街の耳障りなBGMや呼び込みは、住宅街を巡回する竿竹屋や廃品回収業者以上にうるさいし、都市も地方も同一企業の看板や店舗(特にサラ金業やチェーン型ファーストフード、スーパーマーケットなど)で似たり寄ったりの金太郎アメ的景観。これは個人的センスの問題を超えて、全体主義的な暴力ですよ。そういう暴力に鈍感なわりに個人主義を謳う池田さんは、日本という社会システムとともに滅び去るのがいいところではないでしょうか。
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コメント
- >「興味ない」じゃなくて、それこそ「理解してない」のくせにさ。
そか。「理解してないする気もない」のエクスキューズとしての「興味ない」なのね。傲慢だわ。
- >「興味がない」と表明することでかれはなにかから自分を防衛しているように思う。
自分と関係ないことに「興味がない」と言うなら字面通りにも受け取れるのよ。
「男」だの「女」だのいう認識は一切しない、「男」だの「女」だのいう認識を持つ者との接触は一切ない、そういう方に限ってなら、字面通り「フェミニズムにも興味がない」もありえると思う。
そうでなければ、何か言葉を発したり、何か行動したり、何か認識したりすること自体が、既に他者の権利を侵食する権力構造に関与してるってのにさあ。
「興味ない」じゃなくて、それこそ「理解してない」のくせにさ。
- >誰がはじめに言い出したのかしら。
オリジナルの言説をリレー的にコピーしていったとも考えられるけれど、思惟の世界同時多発もおこりうる。マザー・テレサとElie Wieselの具体的体験はまったく別物だとしても、「体験の経験化」によってよく似た見解に至ることはありうると思うのよね。
>現在の社会においてフェミニズムにも何の興味も持たないなら、その興味のなさ自体が、他人の恣意性の権利の重大な侵食よ!
そそ。「バカの壁」ならぬ「無関心の壁」。「興味がない」といいながら、わざわざ安い原稿料の書評を引き受けて言及するのはなんのためなのかしらね。与えられたお題にそって小咄をする落語家さんにでもなったおつもりなのかしら。papy的には、「興味がない」と表明することでかれはなにかから自分を防衛しているように思う。かれのなかのホモフォビアが、「興味がない」とエクスキューズしつつ言及する言動矛盾を生じさせてるんじゃないかしら。
- 愛の反対は憎しみではなく、無関心って、マザー・テレサが言い出したことだと思ってた。
誰がはじめに言い出したのかしら。
>他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。
現在の社会においてフェミニズムにも何の興味も持たないなら、その興味のなさ自体が、他人の恣意性の権利の重大な侵食よ!
ばっかじゃないのこいつ!
