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倫理か、美か

私にとっての倫理とは、まずなによりも、「美」や「実感」に最大の価値を見いださないための、思考の拘束具です。

どのような意味でも、「美」は倫理の基準にはなりえません。たとえば、リーフェンシュタールの写真集『ヌバ』は安心して褒められますが、彼女が監督したベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』については、多くの人が複雑な表情で黙り込むでしょう。ほとんど同質の美が描かれているにもかかわらず、です。

あるいは、爆発四散するスペースシャトル・チャレンジャーや炎上崩壊するWTC(ワールド・トレード・センター)にある種の崇高美を感じずにすますには、ほとんど洗脳に近い倫理的トレーニングで認知を歪めておく必要があるでしょう。しかし、たとえば後者をうっかり「宇宙全体で想像しうる最大の芸術作品」と素直すぎる発言をしてしまった音楽家シュトックハウゼンがどんなめにあったかは、すでにご存じのとおりです。

美的判断は倫理とは無関係である。それゆえ、美は価値判断には結びつかない。クオリアも同様です。おそらく、「美のクオリア」はありえても、「倫理のクオリア」は存在しない。なぜなら、倫理性とは、否定と懐疑からしか導かれ得ないからです。それゆえ、倫理を純粋な肯定的質感のもとで「味わう」ことなどできません。また、そうでなければ、倫理など信頼に値しません。実感と経験に抗して超越論的に作用するもの、それが倫理です。あらかじめ存在する上位概念は超越的ですが、その都度、事後的に生成する超越性については、超越論的であると私は言います。

斎藤環と茂木健一郎の往復書簡「脳は心を記述できるのか」第1信



阪神大震災直後の映像を見て「まるで温泉場のようです」とコメントした筑紫哲也もバッシングされた。「被災者に対する配慮に欠ける」という倫理的批判であろう。だが、オンタイムでその映像を見、筑紫のコメントを聞いたわたしは、特に腹は立たなかった。自分が被災していないからかもしれないが、湾岸戦争のときにはテレビの報道を見て多くのひとが「テレビゲームみたいだ」と感想を寄せたことを思い出す。第三者の感想なんてそんなものだ。被災者の当事者性が倫理か正義かはまた別の問題。

にしても、為政者が己の美的感覚に基づいて政治を司ることはまことに危険である。ナチスを率いたヒットラーは美学生だった。「美しい国」とかいう曖昧な理念を掲げる現在の日本の首相も、じつに危険である。

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コメント

>「あんたはわかってない」

そうそう。その根拠、ってかその仕組みについての話をすると「わかってない」なんだもの、めちゃくちゃよね。
そういうことを言う方は、もうすこし言動に一貫性を持ってほしいわ。
たとえば、中身を分からずに使っている機械の話をしていて、修理工が機械内部の説明をはじめたときも、「あんたはわかってない」とキレればいいのに。
>一般に推奨される、美とか倫理って、どちらも追究が半端なのよねえ。

「常識」という便利ツールと一緒で、「美」「倫理」って言葉を出すことで暗黙の了解を強制するのよね。なんの根拠もないから、そのひとが持ち出した「常識」「美」「倫理」について疑問を呈すると、「あんたはわかってない」と逆ギレして終了。思考停止という安定状態を揺さぶられると不安になるから、その不安を怒りに転化するだけ。

>WTC陥落に関しては、あたしは倫理的判断と美的判断双方で喜んじゃったw

「あのビル内で働いていたひとびとは何の罪もないのに……」って、ほんとかよっ。WTCは搾取グローバリズムの権化じゃんね。意図なき搾取の、その意図のなさが問われなさすぎ。
一般に推奨される、美とか倫理って、どちらも追究が半端なのよねえ。
その特定の社会の枠組みの内側に視点が閉じ込められていなきゃ、そんな美は醜悪にも見える、そんな倫理は自己矛盾だらけとすぐわかる。

WTC陥落に関しては、あたしは倫理的判断と美的判断双方で喜んじゃったw

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